グリベディン・ヘクマティヤル


 グリベディン・ヘクマティヤルは、クンドゥス州北部、イマムサヒブ(別のデータによれば、バルフ州の同名のイマムサヒブ村。また、北部では、彼がバグラン又はラグマン出身という説も存在する。)で生まれ、1946年又は1947年生まれである。部族連合ギリザイの貴族階級出身のパシュトゥン人。大封建貴族の出身(認知されない私生児で、多くの者は、これで彼の過激指向を説明してもいる。)。40年代末、軍事アカデミーで学んだが、卒業しなかった。ほぼ4年間、アフガニスタン人民民主党に近く、その後、イスラム思想に引き寄せられた。カブール大学工学部の学生となり(この理由で、彼はしばしば「ヘクマティヤル技師」と呼ばれる。)、地下反王政運動に参加し (学生グループ「ムスリム青年」を指導した。)、1972年、毛沢東主義的スローガンの下での学生騒動への参加に対して、数ヶ月間監獄で過ごし、1973年の反王政クーデター後、右翼原理主義敵対派、特に、「イフバン・ウリ-ムスリモン」、つまり、「ムスリム兄弟」組織と積極的な連絡を整備し、1975年にモハンマド・ダウド政府に対する武装行動隊列の訓練を指導し、逮捕及び拘禁され、1976年、パキスタンに逃亡した。アフガニスタンにおけるソビエトの駐留に対する闘争期間、ソ連領土への「ジハード」の移行の積極的支持者だった。ソビエト・アフガン戦争時、ヘクマティヤル自身と彼のムジャヒディンは、ソビエト軍人への残虐行為で悪名を高めた。1976年に「ムスリム青年」組織に基づきペシャワールで創設されたアフガニスタン・イスラム党の創設者かつ常任指導者である。アフガニスタン・イスラム党は、綱領、規約、組織機構、民族特徴並びにイデオロギー及び倫理的訓練水準による党員の厳格な選抜等、政党に必要な全ての特徴を有しているが、軍事組織の原則に基づきその活動を構築している。綱領に従えば、党の目的は、「救国イスラム体制の樹立」と「イスラムとアッラーの教義の全世界への流布」である。「イッチホド・イスロミ・アフゴニスタン」(アフガニスタン・イスラム党)は、アフガニスタン南東部の州(カブール、バグラン、クナル、ラグマン)、並びに南東部のパシュトゥン人州の右翼原理主義者の利益を代表している。北部(バダフシャンですら)のパシュトゥン人中にも、影響力を有する。ヘクマティヤルのアフガニスタン・イスラム党には、パキスタン北西部のパシュトゥン人住民もかなり加わった。ヘクマティヤル自身のデータによれば、党は、10万人以上を数えた。アフガニスタンの残り全ての党派と同様、ここでの記録数は、存在していない。アフガニスタン・イスラム党は、パキスタン省庁間情報局(ISI)の直接参加の下で創設された。パキスタンの公務員は、「頂上にいる」だけのために、必要な全てのことを行える粗野ではあるが、ずる賢く、無慈悲な狂信者として、ヘクマティヤルを評した。1992年のカブール奪取後のムジャヒディン集団間の民族間分裂中、1993年3月、パシュトゥン人とタジク人集団間の妥協の産物が生まれた。ブルハヌディン・ラバニ大統領政府が創設され、ヘクマティヤルは、首相のポストを占めた。しかしながら、妥協は、簡単ではなかった。90年代中盤のデータによれば、アフガニスタン・イスラム党の武装部隊は、兵士3万人を数えた。単独政権を求めて、ヘクマティヤルは、合意に再三違反し、ラバニ大統領が滞在していたカブールの再三のロケット射撃を含めて、一方的な戦闘行動を開き、それにより、特に平和的住民が被災した。公式に、ヘクマティヤルは、首相のポストに1993年3月から1994年1月まで就任した。

 直接の意義においてムラー(師)ではないヘクマティヤルは、神権国家のイデオロギーに忠実な現代型イスラム教徒である。彼は、旧ユーゴスラビア、アルバニア、チェチェン及びカシミールの過激派を人的戦力で積極的に支援した。タジキスタンのイスラム敵対派の過激派を積極的に支援している。1996年秋、カブール陥落後、ヘクマティヤルの部隊の大部分は、タリバン側に移り、他のものは、分裂し、ヘクマティヤル自身は、イランに移民し、難民から成る新部隊の訓練に従事した。その時、特に1998年の夏の末から、アフガニスタン生活への彼の参加は、最小限となっている。タジキスタン・イスラム復興党、パキスタン及びカシミールの「ヒズブ・ウリ-ムジャヒディン」、「アル・バルク」、「ハラカト・ウリ-ムジャヒディン」及び「ジャマート・ウリ・イスロミーエ」と関係を維持している。

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最終更新日:2004/03/15

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