「千夜一夜物語」のように魅力的なアフガニスタン史を描写するためには、大統治者及び司令官、これら全てのシャー、ハーン及びベクの行為、大シルクロードにかつて横たわり、今の惨めな状態とは比較にならない空前の最盛期を経た繁栄した都市の描写に訴えることができる。しかしながら、その本質自体を明らかにしないこの東洋の昔からの国の歴史の極めて表層的な描写となるだろう。本質は、果てしない戦争という言葉にある。正しく、アフガニスタンにおける流血の惨事は、決して中断しなかった。多くの、その上、非常に強力な東洋の帝国の所有者、野蛮な遊牧民の汗国及び近代的な欧州軍が、その地の奪取を試みた。そして、彼ら全員は、例外なく、ここで、現地住民の激烈な抵抗、ボスの奸計及び、いかなる神を信仰していようが、聖職者階級の無限の狂信に直面した。ここから無数の富と多数の奴隷を持ち出せた者は少ないが、余りに多くの者が、アフガニスタンの不従順な地を自分の血で満たして、自分の死をここで見出した。
参考:
アフガニスタンは、イラン高原北東部に位置しているため、その領土の約4分の3を山地が占めている。北部の横断山岳地帯は、東部において、アフガニスタンの最高峰、中央及び東部ギンドゥクシャ(6,729mに達する最高峰のチラガラン山)に変わる。その最も特徴的なのは、非常に険しい斜面と完全な結氷である。ギンドゥクシャ南方には、中央アフガニスタンの中山山地が存在する。西部では、より高いハザラジャート山地が形成され、東部では、より低い広い河川沿いの低地を含んでいる。アフガニスタンの南部及び南西部には、一連の盆地と共に高原が広がっている。特にそこには、有名なレギスタン及びガルムシル砂漠並びに岩地のダシュチ・マルゴが広がっている。イラン及びパキスタンとの国境に沿って、ソロンチャーク土及び湖沼を有する盆地が見受けられる。アフガニスタンの東部国境に沿って、スレイマン山脈の支脈が狭い地帯で延びている。国民の大部分は、最も重要な都市が位置する大河川の峡谷に集中している。ギンドゥクシャ高山山系、並びに砂漠が占める南部には、ほとんど人が住んでいない。
紀元前329年、現代アフガニスタンの北部領土に、ペルシャ人との戦いで鍛えられたマケドニアのアレクサンドロス大王の無敵の軍が現れた。世界の征服者は、現地の半未開民族が、西アジアの多数の文化的住民よりも著しく早く、彼の容赦を請うことを確信していた。しかしながら、非常に直ぐ、自信過剰なギリシア人の計画は、難攻不落のギンドゥクシャの足元で崩壊した。真の全人民戦争の死の嵐が、ギリシア人を震撼させて、北アフガニスタン及び中央アジア南部の砂漠、山地及びオアシスを巻き込んだ。アレクサンドロス自身は、山岳戦の1つで重傷を負い、その事実については、その年代記が余り触れたがっていない。この事件は、誰も生かさずに、村落全体を無慈悲に皆殺しした位、憤激させた。しかしながら、包囲された山岳民が自ら崖から飛び降りたとき、多数の集団自殺の事実も、彼らを打ちのめした。
間もなく、今スピタメンの名前で知られる野戦指揮官が、ギリシア軍に対する蜂起を指揮した。有能な軍事指揮官かつ政治家だった彼は、敵軍に病的な打撃を与えた機動ゲリラ部隊を組織した。彼らとの直接衝突を避け、スピタメンの部隊は、パミールの風のように、山地及び砂漠に急に姿を消した。住民の支持の下、彼らは、切り立った山道で待伏せを行い、守備隊の存在するギリシアの遠隔地の要塞を奇襲して、撃滅した。
全体として、マケドニア人のアフガン戦役は、約2年間、327年中盤まで継続した。征服者は、大損害を出した。「焦土」戦術を使用して、彼らは、多数の都市及び村落の住民1人まで全てを焼き払った。戦争の一定の段階において、アレクサンドロスのエージェントは、スピタメンの側近を買収することができ、彼は、裏切りにより首を落とされた。しかしながら、彼の死後も闘争は中断されなかった。残ったゲリラ部隊が接近困難な山岳地区で絶望的に戦った以上、その最終段階は、ギリシア人にとって最も困難となった。結局、無人となったアフガンの地は、征服されたが、血を流しつつ、全ての外国人への凶暴な恒久的憎悪の源泉となって、現地部族の記憶に留まった。
このようにして、マケドニア人は、アフガニスタンの次世代の征服者達に、最も重要なこと、つまり、軍兵員の法外な損失の代価と、現地住民の事実上全面的なジェノサイドの条件下においての、みこの普通ではない国を征服することができることについて、全く一義的に証明した自分の経験を残した。しかしながら、この教訓は、どう見ても、その後アフガニスタンに殺到した多数の容易な金儲けの探索者のためにはならなかった。つまり、紀元前2世紀、ここには、中央アジアからのステップの遊牧民が、4世紀にはササン朝ペルシャ軍が、5世紀には野蛮なエフタリト人が、6世紀には、ペルシャ人、インド人及びトルコ人が交代で侵入し、最終的に、651年、ササン朝イランの征服を終え、アフガンの地にアラブ人がやって来た。
最終更新日:2004/04/09
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