第10章 失敗した報復

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 それにも拘らず、英国の地政学的利益は、直接権力でなくとも、少なくとも、帝国側からの厳しい監督下へのアフガニスタンの従属を真に要求した。過去の過ちを認識し、中央アジアにおいて堅固に強化されたロシアは、南東アジアにおける英国の統治に現実的脅威を再び創出することができた。いわゆるベルリン会議時、英国人に圧力を加えようとして、ロシア人は、アフガニスタンとの国境に2万人の兵士を配置し、アフガニスタンには、ストレトフ将軍の軍事・外交使節団が到着した。同時に1878年、ロシア人が、ペルシャ国王ナスル・アド-ジンがコサックに似た騎兵軍団を創設するのを助けたことを考慮すれば、地域における英国の立場がどれ程悪化したのか、理解することができる。

 英政府の反応となったのは、第2次アフガン戦争の開始だった。1878年11月、フレデリック・スレイ・ロバーツ将軍総指揮下の3個縦隊の英軍は、インドから出発し、アフガン人の頑強な抵抗を克服して、2ヶ月間でジャララバード、クラム峡谷、カンダハルを占領し、カブールへの行軍を開始した。12月、ドスト・ムハンマドの後継者、シェル・アリ-ハーンは、ペイバル・コタル付近で撃破され、ロシアに亡命して、ロシア皇帝と接見しようとした。しかしながら、ロシア人には、実権を有していない元統治者は、もはや必要ではなかった。アリ-ハーンは、サンクト・ペテルブルグ入りを許されず、1879年初め、彼は急逝した。

 これは、ロシア外交の許し難い過ちだった。既に5月、故アリ-ハーンの息子、ヤクブ-ハーンは、英国と非常に重要な条件を含む平和条約に署名した。今後、アフガニスタンの全ての対外関係は、インドの英当局を通して実施されなければならなかった。カブール総督には、ルイス・カバナリ氏が任命された。

 アフガニスタンへの英国人の出現は、ゲリラ運動の復活をもたらした。1879年9月初め、カブールにおいて、反英蜂起が起こり、カバナリは、アフガンの首都にいた他の者と一緒に殺された。これに引き続き直ぐに、立ち上がった運動の指導者は、ヤクブ-ハーンに聖なる「ジハード」を布告するように要求したが、彼は、動揺し、結局、カンダハルから接近したロバーツ将軍の懲罰部隊に降伏した。

 その間、ムジャヒディンの運動は、戦力を集め続けていた。1879年末までに、英部隊は、多くの地において、要塞に立て籠もり、その上、彼らの補給は、主計部の輜重隊に対するアフガン人の攻撃により不定期であった。英部隊の状態は、インドとの国境において始まったパシュトゥン人部族の強力な蜂起によっても深刻化した。

 英国人との戦いにおいて、著しい成功を収めたのは、シェル・アリ-ハーンの甥、アブド・アル-ラフマンだった。1880年初め、彼は、多数の部隊の長として、中央アジアから来たアフガニスタンに侵入した。皇帝政府には、多数の外交的「手抜かり」にも拘らず、アフガニスタンに入り込む意識に満ちていた。その代わり、アブド・アル-ラフマンに武器と金を気前良く補給した。彼の軍事的成功の結果となったのは、英国人による彼のカブール国王としての承認だった。一方、新しい統治者は、対外政策問題におけるアフガニスタンの独立性を確認し、カンダハル地区を英帝国に譲渡した。しかしながら、その後、普通そのような戦争とは異なることが起こった。今日では「野戦指揮官」と呼ばれる独立部隊の特に狂信的な指導者が、英国人との条約の承認を拒否し、独自の主導権による戦闘行動を継続した。ちなみに、全く同じ状況は、今日、シャミル・バサエフ及びハッタブがマスハドフ大統領の命令に従わないチェチェンで観察されている。

 ムジャヒディンは、マイバンド付近で第2次アフガン戦争時における最も輝かしい勝利を獲得した。ここで、武器が満足ではなかったヤクブ・ハーンの弟、アイユーブ・ハーンは、2万5千人のムジャヒディンから成る部隊の長として、1880年7月27日、英国のベロウズ将軍と衝突した。会戦中、英砲兵が全ての弾薬を使い果たした後、アイユーブ・ハーンは、敵の側面を迂回しつつ、ボンベイで集められた現地連隊を動揺させ、敗走を強いた。そして、英第66歩兵連隊は、特に勇敢に戦ったにも拘らず、その大隊の1つは、包囲され、アフガン人により事実上完全に撃滅された。生き残った英国人は、カンダハルに逃げ込んだ。この会戦において、彼らは、当時ですら大損害である971人の死傷者を出した。

 最終的に、アイユーブ・ハーンその他の「ジハード」指導者の鎮圧にも拘らず、英国人は、アフガニスタンから自軍を撤退させる決定を採択した。マイバンド付近での大損害は、帝国にとってこれ程病的な決定の採択の際の最後の論拠とはならなかった。1881年の屈辱的な退却後、国内では、後に1989年のソビエト軍の撤退後に起こったのと同じ状況、つまり、内戦が勃発した。カブール国王アブド・アル-ラフマンは、狂信者アイユーブ・ハーンに壊滅的打撃を与え(ペルシャに亡命した。)、アフガニスタンに過酷な中央集権統治を樹立することができた。

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最終更新日:2004/04/09

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