第11章 嵐を呼ぶ。

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ヘラートの15世紀の霊廟 2度の英国の侵入によりアフガニスタンに与えられた損害は、その結果が今日に至るまで実感される位、著しいものだった。長期間に渡る法外かつ取り返しの付かない物的及び人的資源の損失は、国の経済の壊滅的衰退と住民の全般的貧困化をもたらした。事実上、アフガン社会は、その発展において、数十年どころか、丸1世紀退行した。そのような条件は、周知の通り、いかなる社会においても、過激主義イデオロギーの出現及びその影響力の強化にとって理想的な現象である。アフガニスタンも、例外とはならなかった。第1次アフガン戦争中、その主要触媒となったのは、イスラム原理主義であり、その担い手は、事後、強力で、重要なのは、良く組織された政治勢力に極めて迅速に変わっている。

 原則的に、アフガンの宗教過激主義の極めて迅速な確立は、無人の地ではなかった以上、全く当然のことだった。数百年間、ムスリム聖職者階級は、アフガンの各種民族社会において、最も重要な地位を占め、事実上、その唯一の団結要素だった。この際、両英・アフガン戦争には、1818〜1826年の内戦が先行し、その結果、権威、従って、中央政府の実権は、事実上ゼロとなった事情も考慮すべきである。しばしばカブール国王から完全に独立した個々の地区への国の伝統的な分断と、アフガン社会の一般的な内部不一致は、強化される一方で、行為能力のある単一指導の国を失わせた。これらの条件下において、ムスリム・スンニー派のエリート、「ウラマ」、並びにスーフィー教団の長は、現実的政治及び軍事潜在力を保有する唯一の要素に変わった。その結果、国の未来の決定に対する宗教層の影響力は、無制限となった。終戦後、宗教指導者は、外国の干渉だけではなく、アフガン中央政府にも、上首尾な抵抗を組織できる統一勢力に変わった。特に、聖職者と中央行政の2つの権力機構間の武力対決は、その最盛期に到達し、公式権力とイスラム超過激派間の公然たる武装紛争の形を取った20世紀の70年代に至るまで、アフガニスタンの歴史の事後の過程を決定付けた。

 このようにして、特に、急激な宗教的反応を引き起こした19世紀の外国の干渉は、イスラム過激派、20世紀末にアフガニスタンを原理主義国家に変えた原理主義すらの強化の第1原因となった。「邪教徒」、「異教徒」と関連する全てへの憎悪が、外部からもたらされたあらゆる思想及びそれに基づく改革の社会の圧倒的部分による激しい不承認を生み出した以上なおさらである。後者は、変わることなく背神者として見られ、宗教的内幕を有する強力な抵抗にぶつかった。

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最終更新日:2004/04/09

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