第12章 「ジハード」は命じられたのか?

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アラビアのローレンス しかしながら、大外交に長けた英国人は、彼らにとってあれ程不都合だったアフガニスタンの内政状況の展開から、利益を導き出すことができた。両アフガン戦争の分析に基づき、彼らは、中央アジア民族、特にパシュトゥン人、タジク人及びウズベク人の政治活動におけるイスラムの巨大な意義を全く明らかに見極めた。身をもって「聖なるジハード」を味わって、英国人は、後に、アフガニスタンだけではなく、北西インド(現代のパキスタン)及び中央アジアにおいても、帝国ロシア、並びにソビエト国家に対して、自国の目的の達成のために、これを上手く利用した。同時に、特に原理主義の助けの下で、彼らは、最終的に、パンジャブの好戦的なパシュトゥン人部族からインドを安全にすることができ(それにも拘らず、その蜂起は、1897年まで長引いた。)、彼らの破壊的なエネルギーをアフガン国王自身に向けさせた(特に、前世紀の20年代末)。このようにして、「聖なるジハード」の万能兵器は、ロンドンがアフガンの内政に上手く干渉し、極めて強情な指導者を取り替え、傀儡統治者を王座に押し上げることを可能にした。この陰謀技術において、最高レベルに達したのは、伝説的な英諜報員、アラビアのローレンスであることが知られている。彼の関心分野が近東1つに限定されていただけではなく、ギンドゥクシャ山脈にも達していたことを知る者は少ない。ここで、彼は、ピル・カラム・シャーの名前で行動した。ペルシャ奇術師の機敏さを以って、英国人は、彼らを鈍らして、ムスリムにとって神聖な概念で操作した。ローレンス自身は、周知の通り、1935年5月に不可解な事情の下で死亡したが、彼が蓄えた経験は、配達不能とはならず、12年後、宗教的徴候による旧英領インドのインドとパキスタンの2国への分離の際、非常に役立った。

 英国人は、中央アジアにおけるロシア人の定着を最大限に紛糾化させるために、ロシアに対しても、「聖戦」を利用しようと試みた。19世紀の70年代末のアフガニスタン及び中国の新疆国境へのロシア軍の進出が、地域における新しい地政学的状況を生み出したことを考慮すべきである。英領インド当局は、現実的脅威を感じ、非常に決定的に行動し始めた。ロシア帝国の恒常的な経済的弱体と、指導官僚の何らかの外交的想像力の完全な欠如の結果、中央アジア空間の服従には、戦力方法のみが利用され、英国の密使により蒔かれた反ロシア宗教感情の種にとって好適な土壌を創出した。しかしながら、当時、今日と同様、中央アジアにおける宗教的不満は、隣国アフガニスタンからの金、武器及び義勇兵により積極的に満たされ、タジク人とウズベク人があちこちに居住し、同じスーフィー教団が活動していた。その結果、前世紀末、中央アジアにおいて、一連の宗教蜂起が認められ、その内、最も強力だったのは、コーカンド(1873〜76)、ブハル(1888)、タシケント(1892)及びアンジジャン(1898)だった。

 当政策は、英国人がアフガニスタン領土から現地スーフィー教徒の援助の下、反革命運動及び某ジュネイド・ハーンを積極的に支援した20世紀の20年代〜30年代にその絶頂に達した。ちなみに、ジュネイド・ハーンについて。彼の軍は、正規軍ではなく、ジギト・トルクメン人から大部分が集められた。その装備は、主として、旧式の猟銃及びサーベルから成ったが、赤軍の正規部隊に対して、活発なゲリラ戦を行うのを妨げなかった。一連の重大な撃破にも拘らず、ジュネイド・ハーンは、結局、ボリシェビキに捕まらず、国外のアフガニスタンに去った。英国人の別の「クライアント」は、「ムスリム人民軍」を有するムハメッド-アミン-ベク-・アフメトベコフと、ブハル国王セイード・アリムだった。前者は、その後、「赤」側に移り、後者は、フルンゼで撃破され、故郷のブハルからアフガニスタンに逃亡した。事実上王位を失った彼が、他でもない、英帝国に国籍を完全に公式に移したことは、注目に値する。

 それにも拘らず、特に北方への宗教拡大が実施されていた中心地としてのアフガニスタンの影響範囲は、中央アジアだけに留まらなかった。つまり、1878〜79年のカザン県での宗教騒擾の事情の綿密な分析は、1873〜76年のコーカンドでのより早期の騒擾との関係の存在を追跡することができる。そして、何れにせよ、反ロシア感情の扇動において、積極的な役割を演じたのは、スーフィー教だった。特にそれ故、今日、特にタタールスタンから、バサエフ及びハッタブの集団隊列に著しい数の義勇兵が入っていることに、驚くべきことは何もない。我が同僚、チェルナ河岸でのメドレセの活動について驚いて物語ったロシアのテレビ・ジャーナリストは、タタールの地におけるイスラムの歴史の勉強に労を費やしている多くの説教師をきっと知ったはずである。そし、ちなみに、既に前世紀から存在していたタタール及び北カフカーズのスーフィー教の関係をきっと発見したはずである。特にスーフィー教団を通して、英国人がロシア帝国のムスリム住民を蜂起させることを意図して、土台自体まで揺さぶったことを予想するに足るあらゆる根拠が存在する。ロンドンのある国王は、既に前世紀末、ロシアの弱体化及びその欧州からの駆逐には、何よりも、中央アジア領土の分離を組織する必要があり、そうすれば、形式的には欧州だが、内容に関してはアジアの国家は、年度細工のように倒れるだろうと判断した。19世紀と20世紀の境目に、この壮大な計画は、実施されなかった。しかしながら、英国人は、いたずらに、対外政策も含めて、全てにおいて保守主義を特徴としている訳ではない。独創的な構想は、耄碌したソビエト指導部が挑発に乗って、他でもなく、特にアフガニスタンでの戦争に巻き込まれた70年代末の最良の時まで、文字通りの意味において、文書棚に「保守」されていた(だが、その後、忘れなかった。)。アフガンのムジャヒディンのパトロンが既に当時、彼らが立案したプログラムの停滞の可能性を予見し、事後、「聖なるジハード」が彼らのコントロール下から離れたのか、語るのは難しい。アフガニスタン領土からチェチェン、ダゲスタン、タジキスタン及びタタールスタンを経た北方へのイスラムの拡大が、叙述した前世紀のアフガンの事件に根ざす全く現実的な現象なのは疑いない。

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最終更新日:2004/04/09

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