第13章 チャドルを被れ!

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 それにも拘らず、歴史の公正さのために、アフガン聖職者階級への英国人の影響力が、両国の関係が常に、至るところで現れた訳ではないため、明らかではないことを指摘すべきである。このことは、英領インドとアフガニスタンの関係が、秘密外交へのあらゆる依存にも拘らず、極めて緊迫し、例えば、1919年5月に起こったように、武装紛争に転化すらしたことをもたらした。衝突の原因となったのは、アマヌラ・ハーン国王の挑発的な行為だった。後者は、同年即位し、英国に対する「聖なるジハード」の開始を宣言し、パンジャブのパシュトゥン人に積極的に蜂起をけしかけた。客観的な英国人は、1ヶ月間、アフガニスタンに部隊を投入したが、顕著な軍事的及び政治的成果を収められず、退却し、対外政策問題も含めて、同国の独立を承認した。

 それにも拘らず、当初新国王を支持したアフガンの聖職者階級は、非常に迅速に積極的な敵対派に変わった。聖職者の特別な不満を引き起こしたのは、多妻制及び未成年者との結婚の禁止、チャドルを被る義務の撤廃、並びに女学校の開校及び教育に対する聖職者階級の監督の廃止等、トルコでアタチュルクの革新事業によりもたらされた改革の実施だった。最初の騒動は、1923年、ハザラジャートで起こった。24年3月、最も強力な宗教プロパガンダの影響下で、南東部において、パシュトゥン人部族が蜂起した。蜂起の組織は、英国エージェントの手によるものでもあったことが知られている。正統派宗教層の不満は、英国人によりアマヌラ国王自身に対して利用された。後者は、一連の大規模な反政府行動を鎮圧することができたが、原理主義プロパガンダの影響から自軍を防ぐことはできなかった。全将兵への遅ればせながらの命令すら、スーフィー教団には入らなかった・・・。その結果、アマヌラ・ハーン体制は、崩壊の瀬戸際にあった。人民の怒りの爆発の最も強力な起爆剤となったのは、カブールでの洋服の義務的着用に関する法律の採択だった。同時期、国王の「尊厳ある」交代の模索に従事したのは、インドの沿国境地区に事前に到着していたピル-カラム-シャー、つまり、アラビアのローレンスだった。短期間に、彼は、自分の流儀の冒険家、タジク人で、パンジシェル峡谷出身の某バチャイ・サカオを探し出した。狡賢いボスで、有能な戦略家であったサカオは、パキスタンのペシャワール市で金と武器を受け取った。特にここには、55年後、ソビエト軍との戦いのためのアフガンのムジャヒディン及び全イスラム世界からの義勇兵の最も重要な訓練センターの1つが存在することになる。1929年当時、ローレンスの寵児、バチャイ・サカオは、英領インドから戻り、カブールを突然包囲し、奪取した。改革は、最終的に葬られ、聖職者階級の特権及びイスラム法令、シャリアートの権力が、完全に復活した。

 しかしながら、サカオも、権力を長くは維持できず、タジク人とパシュトゥン人間の民族間の相違の犠牲者となった。後者は、余所者に支持も、服従もしようとはせず、その結果、彼の統治は、わずか9ヶ月間しか続かなかった。同1929年末、パシュトゥン人のボス、ナクシュバンジア教団の指導者、そして勿論、英国人の共同努力により、アフガニスタンの権力は、パシュトゥン人のナジル・シャーに移った。

参考:

 スーフィー教団は、アフガニスタンにおいて、スンニー正統派と並んで、最も堅固な地位と巨大な影響力を有する。この際、指導的地位は、カジリア及びナクシュバンジアの両教団に属する。前者は、17世紀に定着したインドからアフガニスタンに入った。第1次世界大戦後、バグダッドからパシュトゥン民族居住地区に、ナジブ・ガイラニという名の人間がやって来て、その目的がアフガニスタン領土におけるカジリアの立場の強化であったことが知られている。

 ナクシュバンジアについて言えば、これは、教団の故郷であるブハルからアフガニスタンに浸透した。19世紀初め、ナクシュバンジアの改革者シルヒンジの末裔、教団の傑出した精神的指導者ムジャジディン・アルフ-エ・タニは、インドからアフガニスタンに移住し、カブールに定住した。

 ナクシュバンジア及びカジリアの両教団は、描写する期間、非常に枝分かれした国際機構を有した。しかしながら、彼らの活動は、大衆巡礼の対象である人民中に広く知られ、一般的な限定数の聖地の周りに集中した。そして、これが公式な正統派であるにも拘らず、「ウラマ」は、聖人及び聖地の崇拝を異端と見ている。

参考:

 タジク人は、数に関して、アフガニスタンの2番目の民族集団を構成し、この際、国の古来からの農民人口だった。この民族の形成には、バクトリア人、ソグド人、サカ人等、中央アジアの多くの昔からの民族が参加した。最終的に、タジク民族は、これまで東イラン語を話していた古バクトリア及びソグドの住民が、西イラン語族に属する共通のファルシー(ダリ)語に移った9〜10世紀に形成された。13世紀のモンゴルの襲来まで、タジク人は、ギンドゥクシャ北方及び南方の大規模な全てのオアシスに定住していた。

 アフガンのタジク人の歴史は、伝統的に、現代アフガニスタンの中央及び北部地区だけではなく、中央アジアの南部地域とも密接に関係していた。現代の北アフガニスタンのタジク人の地の大部分は、その創設者アフマド・シャーにより、ドゥラニ国の構成下にに編入された。その時から、パシュトゥン人統治者は、ほぼ常に、多数のタジク国民を考慮に入れざるを得なかった。原則的に、アフガン王政は、パシュトゥン人は起源により、タジク人は言語(1936年まで、ファルシー語は、唯一の公用語だった。)、部分的に文化により、事実上のパシュトゥン人・タジク人連合の象徴かつ具現であった。加えて、1776年、アフガニスタンの首都は、パシュトゥン人のカンダハルから、中央部のタジク人が優勢なカブールに移転された。

 既に20世紀の90年代前半(タリバン運動の発展まで)、タジク人は、他の民族と共に、事実上、アフガニスタン全州に大量に居住していた。この際、ヘラートのオアシス、ギンドゥクシャの南斜面のパンジシェル、、ゴルベンド及びサラングの峡谷、並びに北東辺境のバダフシャンの山岳州のタジク人住民が密集する3大地区が維持された。ちょうど人口分布に従い、タジク人は、2つの主要グループに分かれる。第1は、平野人であり、第2は、山岳人である。平野人は、比較的早期に、パシュトゥン人君主に服従した。異郷での長期間の居住は、彼らと他の民族代表との間に、多くの差異を消し去った。彼らの大部分は、スンニー派であり、このことも、彼らをパシュトゥン人の同宗派と接近させている。これらの原因の結果、平野タジク人は、伝統的に、パシュトゥン人統治者に忠実で、例えば、アマヌラ国王が南東部のホストでのパシュトゥン人の蜂起の鎮圧の際、タジク人軍部隊を利用した1924〜25年のように、時折、体制の軍事的支えとしてすら行動した。

 山岳タジク人は、多くの指標に関して、平野の同種族と著しく異なっている。彼らは、非常に自由で、極めて好戦的で、彼らの自由を侵す何者に対しても、絶え間ない戦争を何十年も行うことができる。山岳タジク人の居住地区が、常に妥協のない戦争の火元だったのは、偶然ではない。彼らの先祖、バクトリア人とソグド人は、アレクサンドロス大王の軍と勇敢に戦い、南タジキスタン及び北アフガニスタンの接近困難な山岳地区の拠点を以って、大規模なゲリラ戦を展開した。20世紀の80年代、山岳タジク人は、同じゲリラ戦の方法を使用して、ソビエト軍に対しても、激しく戦った。90年代末、事実上アフガニスタン全土がタリバンに服従した後ですら、良く強化されたパンジシェル峡谷を支配する野戦指揮官アフマド・シャー・マスードが、主として山岳タジク人から成る全国で最も戦闘能力を有する歩兵を有している以上なおさらである。

 ここで、北アフガニスタンの多くの現代タジク人が、好戦的な反革命分子の末裔であることも指摘すべきである。宗教関係において、山岳タジク人がスンニー派とシーア派に分かれ、バダフシャンでは、特にイスラム教ニザリト派に属していることも知られている。

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最終更新日:2004/04/09

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