第15章 ムラー、フューラー

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 アフガン王朝のナジル-シャーの後継者、彼の息子ムハンマド・ザヒル-シャー(父の死亡時、まだ19歳だった。)は、アフガン内政に伝統的な分断を克服する状態にはなく、その結果、30年代は、近代化支持者と保守主義者の両主要陣営の対立を特徴として過ぎた。後者の陣営は、特に聖職者階級から成り、既に言及した「ウレム会議」の周りに形成された。その議員は、伝統的な統治形態及びシャリアートに基づく裁判管轄の維持に賛成し、西側様式のいかなる変革及び改革にも反対した。

 その間、アフガニスタンの国内状況は、ベルリン側からの注視の対象となった。その世界征服への偏執的希求において、ヒットラーは、アフガニスタンに非常に重要な地位を与える長期的計画を抱いた。後に、第2次世界大戦後、ドイツ外交のエースの1人、近東政策の専門家、ベルナー-オットー・フォン・ヘンチングは、以下のように認めている。

 「当時のアフガニスタンは、ソビエト中央アジアの「下腹部」として、特に興味深い地位を占めていた。アフガニスタンからは、ソビエト共和国に対して多くのことを着手できた。アフガニスタンから、インドまでは遠くない。第三帝国の指導者にとって、インドは、重要目的の1つだった。参謀総長F.ハルダーは、1941年2月17日、インドに対する軍事作戦の準備に関する命令を下達した」。

 アフガニスタン奪取によるインド国境への進出に関する作戦の計画立案の開始に関する命令は、総統自身から発せられた。1941年4月、ソビエト連邦に対する攻撃の少し前、ドイツ参謀本部は、当計画に対する準備作業の官僚について、ヒットラーに報告した。1941年6月11日、ドイツ国防軍最高司令部(OKB)と陸軍総司令部(OKX)は、以下の主旨の特別命令第32号を発刊した。

 「「バルバロッサ」作戦の目的達成後、国防軍の師団は、リビアからエジプトを経由して、ブルガリアからトルコを経由して、並びに情況に応じて、ザカフカーズからイランを経由して、外線攻撃により、地中海及び近西アジアにおける英国陣地に対して戦闘を行うものとする」。

 このようにして、東部戦線での電撃戦の来るべき成功を確信したドイツ人は、1941年秋までに、インド、同時に英帝国の心臓部も脅かせるアフガニスタンでの作戦のための基地の創設を準備していた。ドイツ人の伝統的な杓子定規により、アフガニスタン、更にインドへのドイツ軍の進行の保障に関する措置を規定したコードネーム「アマヌラ」計画が立案された。計画の一部は、インド国境付近への国防軍兵士の出現の際に起こるはずであるインドのムスリムの強力な反英蜂起の準備であった。アフガニスタン及びインドの現地住民との協力のために、エルサレムの有名な回教僧ハジ・アミン・アル-フセイニの厳重な監視下で訓練された「部隊ムラー」の著しい部分が割かれる予定だった。同時に、ドイツの軍事諜報部「アブヴェール」は、アフガニスタンにおいて、中央アジア移民代表、特に、伝統的に宗教視野において極めて過激な元反革命分子と積極的に協力した。既に1938年、カブールには、ドイツからの兵器及び弾薬の購入に対する無利子借款が提供されていた。ドイツ諜報部は、自国の利益において規定を利用し、特に、インド及びソビエト国境の関係部族は、ドイツ製武器の一部を受け取った。この際、アフガニスタンで働いていたドイツ人は、イスラムの真の敵、ロシア及び英国に対して戦う総統の使者であると不断に強調した。

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最終更新日:2004/04/09

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