第16章 カイロからの贈り物

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 しかしながら、歴史は、ベルリンで考えられていたものとは違った風に取り扱われた。壮大なドイツ人のインド進軍計画は、ヴォルガでの壊滅的撃破、特にクルスク突出部での国防軍の撃破後、失敗に終わった。今、ベルリンの戦略家は、もはや中央アジアへの侵入には至らず、アフガニスタンにおけるドイツ諜報部の影響力は、減少し、その多くのエージェントは、ソビエトの「同僚」の援助の下、国外に追放された。ドイツ人によるイスラム過激派の支援は、このようにして、停止した。

ザヒル・シャー しかしながら、イスラム原理主義は、アフガン内政において指導的立場を占め続き、何よりも、教育領域、計画及び軍における一連の緊急に必要な改革を行うザヒル・シャーの善意にも拘らず、発展すらした。1944年、政府は、シャリアート法の研究のための学校を設立し、6年後、カブール大学神学部に改編された。特に当時、当教育施設と、全イスラム世界で有名なカイロのアル・アズハル神学大学間の密接な協力が確立された。この一歩の意義は、そのおかげで、アフガニスタンでの神学要員の訓練が、質的に異なる水準に達した外、アフガンとエジプトの原理主義者間のはるかに密接な接触が確立された以上、再評価するのは難しい。一方、後者の事情は、現地超正統派層に、豊富な芽生えを与えたエジプトの「ムスリム同胞団」の有名な創設者で、指導者であるハサン・アル-バンナの思想のアフガニスタン浸透を可能にした。

 

ダウド-ハーン それにも拘らず、反聖職者感情の敵対派は、その保守主義及び中世的狂信に対して、聖職者階級の権威者を厳しく非難し、自分の理想のためのより活発な闘争に移行した。先鋭化したこの社会矛盾を背景に、1953年9月、ザヒル・シャーの従兄弟、過去アフガン軍カブール守備隊指揮官だったムハンマド・ダウド-ハーンの政府が権力を掌握した。新しい首相は、国軍の近代化及び強化を自分の最も重要な任務と考えた。パシュトゥン人の地の問題のために、当時正に、関係が緊迫していたパキスタンが、米国と積極的に協力した以上、カブール公式筋は、モスクワに援助を要請した。クレムリンの回答は、肯定的かつ非常に迅速であり、1956年中盤、アフガニスタンには、飛行機、武器及び装具等、ソビエトの軍事援助の川が流れた。その後、カブール軍事アカデミーには、ロシア語で話す教官、軍部隊には、ソビエトの軍事専門家が現れた。この際、多くのアフガン将校は、軍事科学の奥義の教育のため、ソビエト連邦に派遣された。

 軍事領域における改革と同時に、ダウド-ハーンは、経済及び社会教育システムにおける一連の長期的改革の実施に着手した。しかしながら、これは、モスクワとの関係に対して新しい首相を公然と弾劾した宗教正統派の直接の訴えだった。その就任初日からダウド-ハーンとの関係を構築しなかった「ウレム会議」は、改革の縮小に向けられた大規模な反政府キャンペーンを組織した。金曜説教において、回教僧は、首相自身及びその側近宛に、怒りの罵詈雑言をまくし立てた。回答として、50人の主要指導者が弾圧され、彼らが展開した扇動は、一時的に中断した。言葉の文字通りの意味において、ナジル・シャーの下で太ったウレム達は、ダウド-ハーンの多数で、良く訓練され、装備された軍に対して、信仰の原則のために自ら戦おうとは全くしなかった。主として、これは、旧世代の聖職者であり、そのような恥辱的後退後、原理主義運動の事後の確立及び活動に対して、あらゆる影響力を失った。ちなみに、全く同じ過程は、少し後、エジプトでも起こり、1966年、ナセルは、有名な思想家サイド・クトゥブを含めて、「ムスリム 同胞団」指導部を処刑した。エジプトの原理主義者の場合と同様に、アフガニスタンにおいて、主導権は、伝統的な機構での活動に満足せず、エジプトの影響もなくもなく、多数の新しい過激集団の創設に着手した青年に完全に移行した。

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最終更新日:2004/04/09

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