第17章 狂信者の養成所

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カブールの概観 アフガン青年原理主義者の活動の主要中心地となったのは、当時、カブール大学だった。議会と同様に、これは、その3,00人の学生(1962年当時)中、半数を地方出身者が構成した以上、部族間及び宗派間の接触の中心地であった。そして、議会と同様に、大学は、社会を分裂させた対立の震源地であった。現代のアフガン原理主義が鍛えられた溶鉱炉そのものとなったのは、既に言及した神学部だった。その学部長は、最も興味深い人物、かつてアリ・アズハル大学で全てを学び、特にそこで「ムスリム同胞団」のイデオロギーの最も強い影響を受けたゴリャム・ムハンマド・ニヤジだった。彼の外、2人のエジプト人の教授及びインド出身の教授も、神学部の講師だった。後者は、知られている限りでは、20世紀最大のイスラム原理主義の思想家の1人、サイド・アブドゥル・アル・マウドゥジの教義の信奉者で、既に40年代から「ジャマート-イ・イスラミ」の党員であった。これらの教授、並びに現地イスラム活動家のおかげで、学生は、マウドゥジ及びクトゥブの論文の翻訳へのアクセスを得た。

グリベディン・ヘクマティヤル アフガニスタンでのイスラム原理主義の思想の流布において、特別な役割を演じたのは、学部指導部により発表された「モジャリ-イ・シャリアート」(「シャリアート解題」という名の論文だった。1965年、その学生達は、最初の反政府デモを組織し、「聖戦に関する論文」と題されたパンフレットを全希望者に積極的に配った。同期間、急成長するイスラム運動の社会活動は、「ムスリム青年」組織の庇護下で行われ、その長に立っていたのは、グリベディン・ヘクマティヤルという名の人物だった。原理主義運動の他の機構は、地下で機能し、既に言及したニヤジの指導下、秘密会議により指導された。1970年、この会議は、イスラム教徒に従属する全ての機構の活動をカブール大学外への原理主義思想の積極的な流布に向ける決定を採択した。その外、最短期間に、首都及び州において、可能な限り最大数の原理主義細胞が現れるはずだった。この際、その活動家に対して会議により付与された最も重要な任務の1つは、軍隊列、特にその将校中での改宗者の勧誘にあった。

 最終的に、1972年、イスラム教徒指導部は、その活動の準備段階が首尾良く終わり、運動の総合戦略を修正することを決定した。今後、その主目的(以前に宣言された社会の精神的復興の代わりに)となったのは、国の政治権力の奪取であった。採択された規約に従い、運動の総裁が選出された。総裁には、カブール大学の神学教授、「ムスリム同胞団」(同名のエジプトの協会のミニ・コピー)グループの指導者、ブルハヌディン・ラバニが、その副総裁には、アブドゥル・ラスド・サヤフがなった。後に、両者は、ソビエト軍に対する戦争の英雄として名を上げ、国際原理主義運動の大活動家となった。

 「ムスリム青年」組織により行われた扇動の媒体は、1968年に創刊された出版物「ガヒズ」(「朝」)であった。一方、良く組織された情報業務のおかげで、全国中でのイスラム教徒の影響力は、1972〜73年、数倍に成長した。彼らのプロパガンダが特に成功したのは、州の青年、中等学校の卒業生、職業集団及び工業大学中であった。影響力の成長と並行して、政府及び国王自身宛の原理主義者の非難も、ますます過激になった。イスラム教徒の大衆デモ及びそのマルクス主義者との街路での衝突が、頻繁な現象となった。全体として、1965年から1973年の期間、イスラム教徒とその敵対者により、全国で2,000件以上のデモ及び集会が組織され、当然のことながら、国内状況の緊張の低下を不可能にした。

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最終更新日:2004/04/09

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