第18章 パキスタン流刑

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 1972年、ヘクマティヤルの「ムスリム青年」は、カブール大学の学生界において、大きな地位を得、エジプトのパレスチナ人イスラム教徒と同様、そのアフガンの「同僚」は、最高教育施設に対する支配確立を権力闘争の上首尾な継続の担保と考えた。ムスリム青年の支持者の主要部分は、当時、農村の中等学校卒業生から構成された。その外、ヘクマティヤルの支持者は、従来通り、軍将校の自分の隊列への勧誘に、大きな努力を払った。伝統的なウレムとの若干の接触を維持していた旧世代の原理主義者と異なり、ムスリム青年の活動家は、これによがしに彼らから距離を置いた。彼らは、ウレムを小心な妥協主義者と見、このようにして、イスラム戦線は、旧世代とより過激で攻撃的な青年間に分裂した。特に、イスラム教徒運動のこの弱点は、その鎮圧のために、国の権力を奪取し、1973年7月に自分を「大統領」と宣言したダウド・ハーンがうまく利用した。イスラム敵対派に対する最も強力な打撃は、その多くの指導者がカブールの地区の1つでの秘密会議に集まった1974年6月に与えられた。その外、彼らにより、イスラム共和国の創設計画及びシャリアート法の全国導入問題が審議されていた。集会終了間近、それが行われていた建物に、大統領の秘密保安機関の武装職員が突然乱入した。20人が逮捕され、ヘクマティヤルだけが、会議場から密かに抜け出し、その後、隣国パキスタンに逃亡することができた。集会に参加しなかったラバニとニヤジは、ダウド・ハーンと合意を試みたが、これは、成功しなかった。ラバニは、ヘクマティヤルに引き続き、パキスタンのペシャワールに渡り、ニヤジは、非常に迅速に、有名なポリ・チョルヒ監獄の一室にあった。

 パキスタンにおいて、ヘクマティヤルとラバニは、東洋の歓待のあらゆる方法を以って迎えられた。首相ズリフィカル・アリ・ブットは、以前から、インドとの恒久的戦略対峙から著しい戦力を引き離す北西部でのパシュトゥン人問題を解決することを希望していた。パキスタン特務機関ISIは、ダウド・ハーンがアフガン・パキスタン国境に隣接する地区に居住するパシュトゥン人部族のボスに提供した援助について、信頼すべき筋からの正確な情報を有していた。この援助は、特に活発になり、後の1975年2月に起こったパシュトゥン人の蜂起の直前には、既に秘密ではなかった、ブットは、問題の根本がカブールにあることを良く理解していた。蜂起を鎮圧し、沿国境地区の動揺に終止符を打つためには、ダウド・ハーンを厄介払いする必要があった。そして、これを行える唯一の勢力は、当時、イスラム教徒だった。パキスタン首相は、失寵した指導者と迅速に合意した。達成された合意に従い、パキスタン側は、財政資金、武器、軍事専門家によってすら、アフガンの敵対派を保障した。一方、ラバニとヘクマティヤルは、最短期間に、自称アフガン大統領を除去することを約束した。このために彼らが起こした全国民蜂起は、ブットの希望に従えば、1975年7月に起こるはずだった。これは、国家テロの古典的な事例であり、イスラム教徒は、事実上、外国指導者に奉仕する請負殺人者となった。それにも拘らず、そのような実践は、ブット自身にとってただでは済まなかった。彼が蒸留したテロルのジンは、4年後、彼を襲った。1979年4月4日、彼は、新しい指導者ジヤ・ウリ-ハク暗殺の陰謀の捏造された嫌疑により、イスラマバードで処刑された。

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最終更新日:2004/04/09

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