第2章 イスラムの旗の下での戦争

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カブール、Shah-i-Naiモスク 651年にアラブ馬の蹄に蹂躙されたイランの後、アフガニスタンは、カリフの軍にとって真の地獄となった。中央アジア奥深くへの彼らの急前進は、山岳地で軍事行動を行う必要があり、アラブ人がその準備を全くしていなかったため、事実上停滞した。1年後初めて、以前ササン朝に属していたヘラートが、664年になって初めてカブールが奪取された。しかしながら、アラブ人は、ここを長くは維持できず、アフガン人により市から追い出された。50年以上後初めて、再びここに戻ることができ、706年、ムハメッド・イブン・アル-カシム司令官は、最終的に、オメイアド回教国の構成下にカブールを併合した。そして再び、かつてのギリシア人のように、アラブ人は、全面的ジェノサイドに訴えざるを得なかった。トルコ及びエフタル民族が特に頑強な抵抗を征服者に示したアフガニスタン北東部において、カリフの使者は、市全体を破壊し、その住民の首を刎ねた。キリスト教及びユダヤ教共同体の外、アフガニスタンの多くの地区には、ゾロアスター教、マニ教、ミトラ教及び非常に大きな仏教の中心地も存在していた事情も、ムスリムの特別な激怒を引き起こした。これら全ての教義、特に仏教は、ムスリムにより、無慈悲に根絶やしする必要がある醜悪な偶像崇拝として見られた。ユニークな建築及び彫刻作品、貴重な芸術作品及び太古からの図書館が野蛮に破壊された。ちなみに、12世紀後、タリバンは、州の1つにおいて、ユニークで、今日まで奇跡的に保存されていた仏像を破壊し、自分の先駆者の「偉業」を繰り返している。

 707年、アラブ軍は、数百年間北アフガニスタンの文化の最大の中心地だったバルフを奪取した。ここで支配的な宗教は、仏教だった。特にそれ故、市は、事実上徹底的に破壊され、多数の現地宗教共同体の中では、ユダヤ教だけが残された。市の復興は、ほぼ20年後の725年になって初めて開始された。時と共に、バルフは、地域の文化の大中心地の地位を取り戻したが、今や、イスラムの緑旗の下であった。特に8世紀、ここでは、イスラムの神秘主義潮流の信奉者である最初のスーフィー教も現れている。正に、バルフは、スーフィー教組織の中心地の1つとなった。口承伝統に従えば、現地統治者イブラヒム・イブン-アドハムは、新教義設立の父の1人だった。時と共に、これは、アフガニスタン領土に非常に広く流布した。

 8世紀末までに、アラブ人は、民族抵抗の火種を断ち、アフガニスタン領土の大部分に独自の権力を樹立した。征服は、東部への移民の大きな波を引き起こし、アラブ植民者による数州の移住を顕著に容易にした。9世紀、特にこの領域では、仏教徒、キリスト教徒及びユダヤ教徒の経験の影響の下で生まれた多数のムスリム教育施設、「メドレセ」の建設が展開された。仏教徒との接触は、スーフィー教団の出現にも、大きな影響を与えた。

 10世紀になって初めて、イスラム教は、アフガニスタン住民の圧倒的多数の宗教となった。しかしながら、ここにパラドックスがある。形式的に新しい信仰に移りすらしながら、現地住民は、カリフ及びその総督の権力への抵抗を停止しなかった。逆に、イスラム教は、その後各種イスラム異端派のスローガンの下で行われた多数の蜂起のボスの手で、強力な武器となった。つまり、7〜10世紀、反政府行動が、ハリジュ及びカルマト派、並びに有名なムカンナの信奉者により指揮された。

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最終更新日:2004/04/09

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