第20章 新たな権力、古き闘争

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ダウド・ハーン その間、アフガニスタン自体において、政治情勢は、ますます先鋭化していた。ダウドは、 陰謀と反乱を酷く恐れて、自分の行政府から「パルチャム」運動の代表者を追い出し、彼らと、「ハルク」運動員を迫害した。同時に、イスラム教徒の追及も継続された。つまり、1977年12月、計画相アフマド・アリ・コラムの殺害後、ダウドに忠実なアフガン特務機関は、反政府的陰謀の嫌疑で、54人のイスラム原理主義者を逮捕した。しかしながら、弾圧は、長くは続かなかった。1978年4月27日、数台の戦車、3機の飛行機及び歩兵の小部隊が、軍事クーデター実行のため に、アフガニスタン人民民主党支持者の将校の手に渡った。ダウドは、当然のことながら、殺害され、彼の全権は、アフガニスタン人民民主党指導者ヌル-ムハメッド・タラキに移った。

 新政府は、イスラムの原理への忠誠について暫定的に表明し、シャリアートの法律に厳格に従い、意図する全ての改革を行うことを誓約した。 しかしながら、同年5月 に始まった普通教育と農業システムの改革は、聖職者、市場の商人及び土地所有者、言い換えれば、事後新モスクワ統治体制への軍事抵抗の中心人物及びスポンサーとなった者達側からの激しい抵抗に会った。このようにして、アフガニスタン人民民主党の運命は、既にその権力掌握の初期段階において初めから決まっていた。この際、アフガンの聖職者階級の実際に並外れた勢力を考慮すべきである。80年代初め、アフガニスタンでは、約4万の回教寺院が活動していた上に、カブールだけで、800以上が数えられた。その外、青年と共に、多数の宗教学校、メドレセが活動していた。聖職者の総数は、30万人に達した(住民2千万人以上中)。比較として、与党アフガニスタン人民民主党の両派閥の総人数は、15,000人を超えなかった。特にそれ故、改革の大部分が着手された農村は、ムラーとスーフィー教の高僧により統制され、政府の努力を評価しなかった。結果として、1978年中盤までに、政府官僚及びソビエト連邦から派遣された教師の殺害が頻発した。同時に、モスクにおける反政府プロパガンダが著しく増大した。当局は、聖職者の大量逮捕で応え、人民の更に大きな憤慨を引き起こした。アフガニスタンの最も権威ある宗教指導者の1人、ムハンマド・イブラヒム・モジャッディジは、政府の改革を反イスラムであると、体制事態を真のムスリムに反するものであると公言した。

 しかしながら、当局は、当時、降伏するつもりはなかった。1979年1月、影響力あるモジャッディジの一族の男性が逮捕された。 彼らの数人、並びに宗教敵対派の他の指導者は、特殊保安機関SGI(ソビエトのKGB式に構築された「国家情報庁」)の拷問部屋で処刑された。追及を逃れ、無事だった多くのスンニー派及びスーフィー教の権威者は、ラバニよヘクマティヤルの例に倣い、パキスタンのペシャワールに逃亡し、彼らに合流した。その結果、 それでなくとも平穏ではないアフガン-パキスタン国境近隣の地区は、非常に早く、カブール体制に対する宣戦布告のない戦争の火元に変わった。ゲリラ戦は、1978〜79年の冬に特に強化された。多くの接近困難な山岳地区において、1979年初め、各種ゲリラ集団が権力を奪取した。ヌリスタンでは、「ヌリスタン・イスラム戦線」の戦闘員が支配し、シーア派ハザラ人が居住する山岳ハザラジャートは、アフガニスタン・イスラム同名革命会議の支配下にあった。その外、同1979年、イスラム教徒は、実際短期間ではあるが、北部のバダフシャン州都、ファイザバード市を奪取した。この地区は、パキスタン及び中国と同時に隣接し、そこからゲリラが必要な援助を得られる以上、特に戦略的な意義を有している。その後、イスラム教徒がファイザバードを放棄した後ですら、彼らは、事実上、全州を支配し続けた。この際、バダフシャンのゲリラの大部分は、ラバニの「ジャマート-エ・イスラミ」に属していた。その総合指導は、野戦指揮官で、宗教指導者のマウラビ・ホメイニが実施した。

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最終更新日:2004/04/09

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