第21章 眼には眼を

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 1979年春までに、ホメイニの支持者は、農村地区をほぼ完全に支配すると同時に、政府は、都市居住区を維持した。同年3月の事件は、状況をイスラム教徒に有利にもう少しで変えるところだった。当時、ヘラートには、これまでイランのイスラム革命に参加していたアフガンのムジャヒディンの大部隊がイランから帰ってきた。その思想の強い影響の下で、彼らは、政権を奪取した「背教者」と闘う決意に満たされた。彼らの一部は、ヘラート軍事守備隊の親イスラム感情の将校との関係確立に従事しすると同時に、残余が近隣の村に分散し、その住民に蜂起を呼びかけた。プロパガンダは、成功を収め、3月16日、伝統的な金曜日の礼拝後、説教により焚き付けられた群集は、ムジャヒディンの指導の下、市を攻撃した。ヘラート自体では、現地住民と脱走兵が彼らを支持した。その後、アフガニスタン人民民主党の活動家、軍将校、ソビエト軍人及びその家族の一員の大規模な殺害が始まった。しかしながら、数日後、タラキ政府は、蜂起を鎮圧することができた。その組織において、カブール公式筋は、隣国イランを非難した。

 同年に権力を掌握したハフィズラ・アミンは、当初の段階において、イスラム教徒に対して穏健な政策を行った。しかしながら、間もなく、 後者に対する彼の温和さが効果のないことを確信し、新しい指導者は、慈悲を憤怒に変え、聖職者階級迫害の大規模キャンペーンを行った。当局は、残虐さにおいて敵対者と競い合った。監獄は、ぎりぎりまで一杯にされ、ベルトコンベアーのように、処刑が毎日行われた。イスラム教徒は、その間、カブール自体において一連の血生臭いテロ行為を実行し、アミンに聖なる「ジハード」を布告した。間もなく、南部に位置するパクティア州は、事実上完全に、ムジャヒディンの支配下に入った。

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最終更新日:2004/04/09

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