第24章 逃げながら同志を撃つ

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集落 アフガンのムジャヒディンにより実行された戦闘行動は、山岳強化地区の防衛、補給縦隊に対する待伏せ、敵の拠点及び守備隊の封鎖、都市に対する攻撃に分けることができる。戦闘修練で特に優れていたのは、ヘクマティヤル及びマスードのムジャヒディンだった。彼らは、死に物狂いで戦い、近接射撃戦において、ソビエトのエリート部隊に劣らなかった。

 アフガン・ゲリラの大作戦の大部分が、ペシャワールから計画及び調整されたことを指摘すべきである。そこからは、武器、弾薬、医薬品及び増援部隊が入ってきた。しかしながら、現地において、実際の勢力は、権威ある野戦指揮官に属していた。後者は、その本部庁舎がパキスタンに存在した各種政党及び運動の構成員であり、その結果、ゲリラ運動は、統一司令部及び戦闘行動の総合戦略計画を有していなかった。アフガンの地で常に行動していた大野戦指揮官の中で、ムジャヒディンに最大の権威を得ていたのは、アフマド・シャー・マスード、エミル・イスマイル・ハーン、アブドゥル・ハク、アミン・バルダク、アブドゥル・カリム及びアンバル・アミンだった。彼らの外、アフガニスタンでは、各時期に、200人から250人の地域野戦指揮官が戦い、その多くは、完全に独立していた。その戦闘員の総数は、12万から20万人前後だった。

 アフガニスタンでのイスラム・ゲリラの戦闘戦術の典型的特徴の1つは、「分かれて前進し、共に攻撃する」 という彼らの標語に正確に一致した「分散」の原則にあった。ムジャヒディンは、捕虜にならなかった。負傷兵を戦場から後送することが不可能な場合、あっさり射殺された。ダゲスタンでの最近の軍事行動時と同様に、アフガニスタンにおけるソビエト軍の攻撃性作戦の大部分は、敵の完全撃破で終わらなかった。戦闘員達は、単に山に逃げ、接近困難な地形に四散し、その後、再び自隊に集結した。その外、ムジャヒディンは、今日グデルメスでチェチェン戦闘員が行動しているように、現地住民中に紛れ込み、ソビエト軍との直接衝突を避けた。その代わり、彼らは、待伏せによる奇襲の大名人であり、峡谷において小グループで攻撃し、山道及び小道に地雷を敷設した。80年代後半、同じ戦術は、南レバノンでも現れ、「ヒズボラ」組織戦闘員が、ここに配備されたイスラエル国防軍の「限定部隊」に対して首尾よく使用した。

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最終更新日:2004/04/09

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