第25章 ムジャヒディンは真夜中にやって来る。

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迫撃砲 このようにして、80年代初め、アフガニスタン人民民主党政権は、ソビエト軍の強力な支援の下、大都市においてのみ踏み止まった。事実上、全ての農村地区は、イスラム敵対派の支配下にあった。形式的にはアフガニスタン民主共和国が統治している多くの都市ですら、夜間、権力は、戦闘員に移った(グデルメスでの似たような状況については、最近、ロシアのテレビが報道した。)。その特に高い集中は、1980年、カブール地区、パンジシェル峡谷、中央部、カンダハル、ヘラート、特にジャララバード地区、並びにパキスタン及びインドと隣接する南東部地区において認められた。大集団は、マザリ・シャリフ地区及びバダフシャン州でも行動していた。ここでは、事実上、全ての交通路と村落が、ラバニの「ジャマート-エ・イスラミ」の軍事部隊の支配下にあった。80年代前半、特にバダフシャン、アム・ダリア川地区から、ムジャヒディンがソビエト国境を通って、隣国のタジキスタンに一連の破壊工作出撃に着手したことは注目に値する。

 80年末、敵対派は、アフガニスタンの全ての地区において、事実上、代替権力機構であったイスラム委員会を創設し始めた。1981年4月、アフガニスタン全土において、州の事実上全ての農村地区を奪取した450のイスラム委員会が既に活動していた。

 一般に、この期間、イスラム運動の特に強力な高揚が観察された。1980年2月末、カブール自体において、蜂起が起こったが、ソビエト軍により鎮圧された。後にロシア人及びアフガニスタン民主共和国当局により着手された懲罰措置に対して、ムジャヒディンは、大規模テロで報復した。1981年、全国で一連の爆音が轟いた。爆破装置が、映画館、市場に仕掛けられた。10〜15年後、ロシア、イスラエル、アルジェリア及び一般に「異教徒」に聖戦が布告されたあらゆる場所で使用され始めた大規模テロ作戦の戦術が処理された。爆発物の設置には、雑踏地に停車した自動車が広く使用された。この外、ソビエト軍人及び民間施設に対する攻撃が頻発した。1981年の最初の2ヶ月間だけで、カブール、カンダハル、マザリ・シャリフ、ヘラート、クンドゥスその他の大都市、並びに交通線上において、千件以上(!)のテロ行為及び破壊工作が実行された。その外、戦闘員は、タジク及びウズベク国境のソビエト国境前哨に対して、一連の大胆な攻撃を実施した。

 ほぼ同時に、1981年初め、ヘラートにおいて、蜂起が起こった。これには、野戦指揮官イスマイル・ハーンが指導する2,500〜3,000人の戦闘員が参加した。最高指導は、「ジャマート-エ・イスラミ」本部から実施され、そこで、蜂起計画も立案された。

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最終更新日:2004/04/09

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