第26章 統一への長き道

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 アフガン敵対派の極度の分裂にも拘らず、ペシャワールに基地を置く派閥を統一抵抗戦線に統合する試みは、一時も中断されなかった。1979年5月にアフガニスタンの伝統的な政治エリート代表により着手されたこの方面における努力の崩壊後、統合問題において、積極的な活動を展開したのは、イスラム諸国だった。80年代前半、イスラム会議機構加盟国外務相も、イスラム敵対派の統合を試みたが、実際、今回も特別な成功はなかった。共通の事業のためにその努力を結集することのアフガンのムジャヒディンの断固たる不本意の原因は、限りなく単純で、金だった。 大金ではないが、ドルの巨大な流入は、その大部分が敵対派各指導者の個人口座に貯えられた。統合の場合、この資金の大部分は、 共通の指導部の管轄下に入るはずであり、そうして、多くの野戦指揮官とパキスタンの彼らのボスにとって、この戦争は、その「聖なる」意味を永遠に失うはずだった。その外、共有財産は、多くの野党指導者と野戦指揮官が行った高収入の麻薬取引からの収入の一般徴収も意味したはずである。これは、既に普通の人々が自発的に拒否しない全く天上の富だった。

 ペルシャ湾の石油王、シーア派イランのアヤトラ、「異教徒」のアメリカ人すらからの 金の巻上げの問題の最大のプロとしては、やはり、ラバニとヘクマティヤルが自認した。後者の財政能力の徐々の拡大は、パキスタンでも、アフガニスタン自体でも、敵対派の隊列における対立の先鋭化をもたらした。野心的で、活動的なヘクマティヤルは、他の政党及び集団を犠牲にして、自分の影響範囲を拡大しようと試みた。 事後、全ては、イスラム・イデオロギーの習慣的な欺瞞なしに、ありふれた犯罪機構における相互関係に典型的な普通のシナリオに沿って起こった。指導者達の反目は、武装衝突を伴う真の「分裂」をもたらした。そのような状況の展開に驚いたアフガンの回教僧は、1981年4月、300人の代表者から成る代表団をペシャワールに派遣し、敵対派指導部に争いを止め、共通の敵に対して団結するように訴えた。

 最終的に、1981年、宗教・君主制主義政党の統合に対する回答として、原理主義者は、「アフガニスタン・イスラム同盟」の名称を得た類似機構を創設した。その長となったのは、既に言及したアブドゥル・ラスル・サイヤフである。後に、1983年5月、サウジアラビアの圧力の下、アフガン敵対派のより広範な組織機構、「イスラム同盟7」の名称を得た「アフガン・ムジャヒディン・イスラム同盟」が創設された。それを指導したのは、同じくサイヤフである。モジャッデジは、彼の副官の機能を執行した。

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最終更新日:2004/04/09

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