第28章 勝利の予感

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ナジブラ 1986年に至るまでの戦争の最後の期間、アフガニスタンにおける事態の一般情勢は余り変わらなかった。1980〜81年 と同様に、ソビエト軍司令部の各軍事的イニシアチブに対して、敵対勢力、特に、イスラム教徒は、非常に効果的に対応した。彼らは、従来通り、テロ行為及び破壊工作と組み合わせた軍事行動のゲリラ戦術を広範囲かつ上手く使用しつつ、敵との直接の大規模衝突を避けた。この際、アフガニスタンにおけるソビエト軍のいかなる人数増加も、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、米国その他の国により提供される支援の増大を自動的にもたらした。パキスタンでは、全イスラム世界からの義勇兵の数が常に増加し、訓練キャンプが創設され、病院が建設され、武器庫が増加した。90年代の未来のテロリストの巨大な孵化器は、このようにして、全力で動作した。


 しかしながら、1986年5月、状況が変わった。モスクワの直接支援の下、バブラク・カルマリは、そのポストから更迭され、アフガニスタン大統領には、モハマッド・ナジブラがなった。この人物の運命は、彼が統治しようとしていた国に全く値する。ちょうど10年後の1996年、タリバンは、駐カブール国連使節団の建物から彼を連れ出し、市の広場で吊るした。

ナジブラの処刑 それにも拘らず、86年当時、ソビエトKGBの類似物である国家情報庁の元長官は、 その政治的出世の頂点にあり、これほど恐ろしい最後は全く予期されていなかった。権力を掌握して、ナジブラは、全国民和解をアフガンの敵対者に呼びかけた後、半年間の戦闘行動実施の一方的停止を発表した。 しかしながら、完全に無益なジェスチャーだった。アフガニスタン人民民主党のそのような政策とアフガニスタンからのソビエト軍の撤退に向けられたモスクワの行動に、「イスラム同盟7」は、傀儡体制の弱みの発露としか見なかった。同盟全指導者の総会において、「聖戦」を最後の勝利まで、言い換えれば、ソビエト軍の完全撤収とナジブラ政府の除去まで継続する決定が採択された。この直後、いわゆる「調停委員会」委員の一連の暗殺が実行された。特に、ヘクマティヤルの支持者がその活動を活発化させ、彼らのボスには、このための金が十分にあった以上なおさらである。そして米国は、1986年、ムジャヒディンへの援助をケチらなかった。宿願であるソビエトのアフガニスタンからの退場は、既に近く、ホワイトハウスでは、当時、未来について考慮されていなかった。

  イスラム教徒と合意できないことを理解して、ナジブラは、その指導者及び野戦指揮官に対する特務機関の業務を活発化した。並行して、彼は、宗教伝統主義者及び王党派と合意して、「イスラム同盟7」を崩そうと試みた。特に当時、アフマド・シャー・マスードを除去する 試みも失敗し、パキスタンにおいて、ヘクマティヤルの護衛が乗った車で、爆破装置が動作し、1988年8月、高度に奇妙な航空事故で、パキスタン大統領モハマッド・ジヤ-ウリ-ハクが死亡した。後者は、周知の通り、アフガン敵対派のイスラム政党を非常に積極的に支援していた。

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最終更新日:2004/04/13

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