第29章 北進開始

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 それにも拘らず、この反対派自体は、憎むべき体制に対する戦闘行動を停止しなかっただけではなく、逆に、著しく活発化させた。若干のイスラム指導者が既に当期間、当時まだソビエトの中央アジア領土への聖なる「ジハード」の移転計画を温めていた以上なおさらである。80年代中盤から、彼らは、タジキスタン及びウズベキスタンのムスリム地下活動との密接な関係の樹立のために、最大限の努力を傾けた。ちなみに、地下活動との最初の接触は、既に70年代後半に認められた。 そして今、パミールの余り知られていない小道を通って、ソビエト領土へのイスラム文献の輸送が組織された。山岳バダフシャン(ワシュ峡谷)とガルム州の地下メドレセでは、マウドゥジ、クトゥブ、アル-バンナ等のイスラム原理主義の著名な理論家の著作、並びにアフガンの原理主義政党の出版物(特に、ヘクマティヤルの有名な著作「神を捜しにどこにいくべきか?」)が流布され始めた。一方、タジキスタンからは、イスラム原理主義の思想は、ウズベキスタンのナマンガン、フェルガナ、ブハル州に入った。イスラムの北方拡大の構想は、サウジアラビア、パキスタン、国際イスラム集団、そして米国が積極的に支持した。

 文献に加えて、中央アジアの非公式なムスリム指導者は、やはりアフガニスタンを通して、財政援助、80年代末からは武器も受領し始めた。同期間、中央アジアの宗教センターを通して、イスラム教徒は、「純粋な」イスラムの地下研究のためにここに来たカフカーズの青年ムスリムと接触を確立した。ヘクマティヤルの「ジャマート-エ・イスラミ」の代表は、バダフシャン及びタハル州のタジク人を通して、全ソビエト期間地下深くで行動していた中央アジアのスーフィー教団との関係を樹立した。

 上記期間、ソビエト連邦方面へのイデオロギー拡大の開始の外、中央アジアの沿国境領域に配置されたソビエト軍部隊に対するアフガニスタン領土からの軍事作戦実施の最初の試みも観察された。つまり、1987年4月、ヘクマティヤルの「ヘズブ-イ・イスラミ・アフガニスタン」の戦闘員は、タジキスタン領内ピャンジャ地区のソビエト国境前哨の奪取を試みた。

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最終更新日:2004/04/13

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