第3章 失敗した平穏の経験

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ミナレット 大宣教師アブ・ムスリムの指導下で蜂起に積極的に参加し、アフガニスタン人民は、アッバシドフのカリフ制の創設を可能にし、このようにして、活発に形成されていたイスラム文化の軌道上に引き込まれた。新王朝のカリフは、不従順な国の政治及び経済状況を顕著に安定化することができた。この際、蜂起した多くの古都、特にバルフ及びヘラートは、全東部ムスリムに有名となった宗教学及び文化の中心地となった。統一帝国の生活への参加は、統一アラブ語の流布と同様、アフガン人が近東民族の科学的及び文化的成果を同時に知り、イスラム文明の進歩に貢献することを可能にした。8〜9世紀既に、言い換えれば、国の征服過程と同時に、アフガンの学者は、カリフにより奨励された集中的な科学活動に最も積極的に参加した。その結果、10〜11世紀、アフガニスタンでは、数学、天文学、化学及び医学等、様々な科学領域の最盛期が観察された。各種期間、ここでは、オマル・ハイヤフ、ビルニ、イブン・シナ、及び少し後のルミのような大学者、神学者、詩人及び神秘主義者の一連の巨匠が輩出した。ちなみに、類似の過程は、アフガニスタンが結び付いて切り離せない拠点である中央アジア隣国でも、当時起こった。

 しかしながら、アフガニスタンは、15〜16世紀、有名なチムール大帝の子孫、チムール王朝の統治下において、その文化的及び宗教的発展の頂点に達した。特に当時、全東部イスラム最大の中心地となったのは、ヘラートだった。市内では、スーフィー教の大哲学者かつ詩人のアブド・アル-ラフマン・ジャミ及び思想家、詩人かつ政治家のニザム・アド-ジン・ミル・アリシェル・ナボイのような数百人の権威ある神学者、スーフィー教の高僧、詩人及び学者が同時に輩出した。その外、ヘラートでは、大モスク及び全アフガニスタンだけではなく、近東諸国、イラン及び中央アジアからも、学生タリバンが何千と集まった巨大な図書館を備えたメドレセが築かれた。

 ヘラートの外、既に言及されたバルフ、カンダハルその他のアフガニスタンの都市も、高度の発展を遂げた。一般に、チムールの子孫の下、ムスリム世界に痛ましい記憶を残しながら、アフガニスタンは、比較的政治的安定(この地域では極めて珍しい。)、従って、経済的平穏の期間を過ごした。

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最終更新日:2004/04/09

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