第4章 戦争再び

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破壊された村落 しかしながら、アフガニスタンの地におけるそのような平穏無事は、永遠に続くようには運命付けられていなかった。あたかも、アッラー自身が、アジア大陸中央に位置するこの国を呪って、致死性の毒を絶えず流す竜の巣窟の類似物に変えたかのようである。16世紀、ムガール王朝の創始者、ザヒル・アド-ジン・ムハメッド・バブルは、アフガン領土を奪取し、カブールをその首都にした。国の他の部分は、ペルシャのサファビー朝に渡った。今後、戦争は、再びアフガン人の主要課業となった。ムガールとサファビー間の戦闘行動、並びに何れかに対する現地部族の絶え間ない蜂起は、18世紀中盤に至るまで継続した。

 1747年、以前ペルシャの君主ナジル・シャーの軍におけるパシュトゥン人部隊の司令官として勤務したアブダリ族の長アフマド・ハーンは、カンダハルに到着し、アフガニスタンのシャーに選出された。この事件の後、全てのパシュトゥン人部族は、アフマド・シャーを自分達の統治者として認めた。ドゥラニ(「真珠」)に改称したアブダリ族は、建国されたドゥラニ国において、重要な地位を占めた。この後直ちに、パシュトゥン人は、自分の統治下へのアフガニスタン領土の統合を開始し、非常に迅速に成功した上に、その特権的地位は、今日に至るまで維持された。その後、大ムガール帝国及びサファビー朝の崩壊、並びに中央アジアにおける絶え間ない内訌を利用して、アフマド・シャーは、イラン東部、トルクメニスタン東部及びインド北西部の広大な領土を奪取して、自国領土を著しく拡大した。このようにして、ドゥラニ国は、時につれ、カンダハル、ガズニ、カブール及びヘラート地区を核心とするかなり強力な地域大国に変わった。

 そしてここで、アフガン史の舞台に、英国とロシアが現れ、当時、両大プレイヤーは、中央アジアの「ビッグ・ゲーム」の中におり、彼らが将来進行する計画を妨害できる強力な独立国家の地域における出現に決して満足しなかった。ここで、18世紀と19世紀の境目に、サンクト・ペテルブルグが、ザカフカーズを強化し、中央アジアの奪取を準備しつつ、東方への積極的な領土拡大政策を行ったことを指摘すべきである。ドゥラニ人の北方への征服拡大が、決してロシア人の利益にならないことが分かった。インドにおいて自国の立場を強化した英国人は、一方では、好戦的なアフガン人からその植民地を安全にすることを追求し、他方では、インド北西部(パンジャブ及びカシミールがドゥラニ国の構成に入っていた。)への事後の進出に関心を持った。一般に、アフガニスタンは、イランとの今後の闘争のためにも、中央アジアへの進出のためにも、同時に拠点となり得る以上、英国指導部の計画において、特別な戦略的意義を有していた。

 このようにして、英ロの大国は、アフガン問題において、逆説的に一致し、この事情は、最終的に、ドゥラニ国の運命を決定付けた。アフマド・シャーの弱体かつ無能な子孫は、特に、周知の通り、英国諜報部により教唆された1798年に始まったペルシャとの戦争中、その多くの征服地を失った。この戦争は、アフガニスタン軍を最終的に破壊した。1818年、1826年に至るまでまる8年間継続した自国領内における各種勢力間の軍事行動が始まった。この内戦の結果は、極めて悲惨だった。アフマド・シャーにより創設された国家は、カブール(最大かつ最も影響力のある)、ヘラート、カンダハル及びペシャワールの個々の弱体な国に崩壊した。その外、アフガニスタン北部では、一連の独立したウズベク人及びウズベク・タジク人の汗国(バルフ、クンドゥス等)が設立された。

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最終更新日:2004/04/09

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