第5章 ヘラートの戦い

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ヘラート、Jamミナレット アフガニスタン領内での内戦は、アジア大陸縦深への進出を英国人及びロシア人に容易にした。最終的に、両超大国間の直接衝突は、不可避であり、これは、実際、ペルシャとカブール国間の小さな独立領土、ヘラート公国のために起こり、その結果、当紛争は、「ヘラート」紛争の名を得た。

 カブール国王とペルシャ当局の各々は、ヘラート公国の自国領土への併合に関心を持った。公国の主要都市、ヘラートは、地域の重要商業及び手工業の中心地である外、強力な要塞を有していた。ヘラートを通して、インドのギンドゥクシャから、イランの沿カスピ海州並びに中央アジアの汗国、ヒビン及びブハルへの隊商路が横たわっていた。

 英国は、事後、中央アジアへの途上の両公国を奪取することを期待していた以上、ヘラートが独立したままか、又はカブールの権力下に入ることを好んだ。ロシア人は、対抗措置として、英国人の計画を潰し、情勢が上手く一致した際、ピョートルが既に夢見ていたロシア人にとって宿願のインドへの道を切り開けるため、ペルシャ人のヘラートの奪取の希求を促進した。

 1829年のロシアとペルシャ間の平和条約の署名後、ロシア人が支持するシャー、アッバス・ミルザは、ヘラート進軍の準備に着手した。ちなみに、既に1816年、ペルシャ人は、この都市を一時的に占領することができたが、蜂起したアフガン部族によりかなり早期にそこから追い出された。今、ロシア人の助けにより、シャーは、ヘラート国を支配下に取り戻すことを期待した。しかしながら、ペルシャの統治者の計画は、神意により阻まれた。彼は、死去し、結局、熟慮されたヘラート進軍は実施されなかった。30年代になって初めて、ペルシャの内政情勢は、ロシア人にとって再び好都合となり、進軍準備が再開された。

 この時、英国人も、手をこまねいた訳ではなかったと、推測するのは難しくない。独立したアフガン国家の強化を望まず、彼らは、アフガニスタンへの自国軍の進入のための根拠を有するために、「第三国」に対する条約をカブール国王ドスト・ムハマッドに押し付けようと試みた。しかしながら、国王は、英国軍の進入への同意の代わりに、金及び武器、並びに最も重要なこと、つまり、1823年に失われたペシャワールの回復を要求して、突然強情を張り始めた。

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最終更新日:2004/04/09

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