第6章 バーブ教徒、インドから来る。

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 今日、事実上既に忘れ去られた19世紀20年代のペシャワール事件については、アフガニスタンだけではなく、今日カフカーズでロシア軍と戦っている「どこから来たのか分からない」バーブ教の事後の歴史にも、直接関係を有する以上、少し詳細に語るべきである。これは、パンジャブの君主、シーク教徒のマハラジャ、ランジット・シングが、1818〜19年のムリタン及びカシミール(ドゥラニの旧征服地)征服後、インダス川右岸のアフガンの地、何よりも、ペシャワールの奪取に着手してから始まった。ナウシェラ近郊でアフガン人を撃破した後、シーク教徒は、ペシャワールを奪取し、インドとスレイマン山脈間のアフガンの別の盆地に移動した。外部の侵略直前、アフガンの部族は、国内の不和を克服し、シーク教徒との闘争において彼らを団結させ、指揮できるボスのために自分の権利の一部を犠牲にすることができた。

 そのようなボスとなったのは、インド領土で活動していたイスラム原理主義派バーブ教の長、サイード-アフマド・バレルビという名の人間だった。インドでは、インドネシア及びアフリカと同様、イブン・アル-バーブの教義は、しかるべく屈折し、順応し、変形しつつ、遠くアラビアから浸透した。バレルビの布教活動が19世紀初めに既に展開されたことが知られている。20年代、彼は、メッカを訪れ、そこで、イブン・アブド・アリ-バーブの教義を知り、その熱心な信奉者となった。インドに戻り、彼は、パトナを自分の邸宅にし、彼のところには、信奉者の群れが合流し始めた。現地条件に適応したバーブ教のプロパガンダは、インド人ムスリム中において、広い反響を見出した。

 1824年、サイード・アフマドは、バーブ教思想の積極的な布教者となり、その後、異教徒に対する聖戦、「ジハード」の指導者を自認した。自分の手に宗教も、世俗権力も全て完全に集中させ、新しいボスは、インドから彼と一緒にやって来た盟友を指揮官に任命した。後者は又、シーク教徒に対抗した部隊の中核も構成した。現地住民は、バーブ教徒に絶対服従することに同意し、イスラムの伝統に従い、収入の10分の1の税金すら彼らに支払った。その結果、サイード-アフマドは、シーク教徒に一連の重大な打撃を与えることができ、1830年、ペシャワールは、彼に降伏した。

 ここでは、バーブ教国家の創設が宣言され、「ジハード」指導者の肖像の付いた独自の貨幣の刻印すら始まった。特に、現在のパキスタン領土に位置するペシャワールは、今世紀の80年代、アフガニスタンにおいてソビエト軍と戦うムジャヒディンの訓練センターとなった。

 しかしながら、サイード-アフマド自身にとって、ペシャワール奪取は、真に割の合わぬ勝利となった。問題は、彼に属するアフガンの地において、現在北カフカーズで全く正確に繰り返された興味深い過程が観察されたことにある。現地の回教僧とハーンは、イスラムの純潔のため、現地部族及び宗教慣習、「アダト」の破壊に賛成したバーブ教徒の支配に活発に抵抗し始めた(前世紀、バーブ教徒ではなかったにも拘らず、イマム・シャミルと彼の前任者が、カフカーズにおいて、類似の問題と直面した。)。シーク教徒の征服の直接の危険の消滅と共に、伝統的な聖職者階級の反バーブ教扇動は、現実的なものとなり、結果として、1830年、原理主義者の真の虐殺が起こった。サイード-アフマド自身は、実際、逃走することができたが、1年後、彼とその側近は、シーク教徒との戦いに入った。特に、アフガン人自身によるバーブ教徒の撃破は、シーク教徒にパシャ環ールに対する支配の回復を可能にした。暫くの間、アフガニスタンにおけるイスラム原理主義者の影響力の強化は、中断した。

参考:

 太古から現在に至るまでのアフガニスタン住民の特色は、その法外な民族の多様性、部族分断並びにありとあらゆる言語及び方言の存在である。65万2,900平方km(フランス領土よりも10万、ウクライナよりも5万大きい。)の領土には、30以上の民族と膨大な数の部族が居住している。そのような民族の多様性は、複数の原因によりもたらされた。何よりも、国の地理特性に言及すべきである。アフガニスタンを各地区に分かち、しばしば接近困難な山地は、伝統的に、民族、文化及び言語分離を可能にした. その外、常に代わる代わるにやって来るアフガニスタン領土への外国軍の侵略は、しばしば、征服地への侵略者の定住をもたらし、全く様々な民族要素の混在物に国を変えた。そして最後に、国際貿易の特に重要な中継地域としてのアフガニスタンの伝統的地位は、国の民族構成に著しく影響した。隊商の外、ここには、出自が様々な多数の宣教師と、各種宗教の信者の共同体が分散した。

 現在、アフガニスタンの住民は、3つの主要グループに分けられる。イラン語族は、特に南部及び北東部に、トルコ語族は、北西部に、インド・アーリア語族は、東部、パキスタンとの国境に居住する。

 多くの比較的小さな地区に複数の民族がすぐさま移住したギンドゥクシャ北方への民族移住の性格は、非常に複雑である。

 最も多数のは、パシュトゥン人、タジク人及びウズベク人の3大民族共同体であり、これらは、加えて、最大の歴史、文化及び政治的重みを有している。事実上、アフガニスタンの全近代史及び現代史は、これら3民族間の対峙に基づき展開し、展開し続けている。更に重要なのは、タジク人及びウズベク人へのパシュトゥン人の抵抗である。この際、パシュトゥン人は、ほぼ常に、自分の排他的支配の下でのアフガニスタンの団結に賛成しつつ、支配的な地位を保持していた。タジク人とウズベク人は、当然のことながら、パシュトゥン人のそのような希求に抵抗している。この際、彼らの間の協力期間は、激烈な衝突により変化する。この絶え間ない敵意の不可分かつ非常に重要な構成要素は、宗教イデオロギーである。宗派の分離は、民族の分離と一緒に、それでなくても深い対立を著しく強化している。この全ては、各種集団、部族及び氏族の常に変化する政治的及び経済的利益に基づき、並びに外国勢力の絶え間ない干渉の条件下において、アフガニスタンの物理的な内政干渉のいかなる試みも、崩壊を運命付けられており、このこは、英国人及びロシア人の失敗の経験により証明されている。

参考:

 パシュトゥン人は、今日、全国民の過半数を構成するアフガニスタン最大多数の民族共同体である。彼らは、多数の部族(「カウム」又は「カビラ」)に分かれ、次いで、氏族集団に分かれる。パシュトゥン民族は、サルバニ、バタニ、グルグシュト及びカラニの4つの主要部族集団が構成する。部族連合で最大のものは、ドゥラニ族(サルバニ集団)及びギリザイ(バタニ集団)である。

 ドゥラニ族は、主として、カンダハル (アフガニスタン南部。パキスタンと隣接する。州都:カンダハル市)、ヘラート(アフガニスタン北西部。西にイラン、北にトルクメニシタン。州都:ヘラート市)及びファラー(アフガニスタン西部。西にイラン。州都:ファラー市)州に居住している。

 ギリザイ族は、カラト・イ・ギリザイ及びガズニ地区に居住する。

 スレイマン山脈(イラン山地の東端、現代のパキスタン、現代アフガニスタンの北部)境外へのパシュトゥン民族の形成及び移住過程は、11〜12世紀に行われた。平野に移住しつつ、パシュトゥン人は、現地トルコ住民の大部分を吸収し、13世紀までに、事実上最終的に、独立した民族として形成された。

 パシュトゥン人の大多数は、常に好戦的な遊牧民であり、しばしば、隣国、特にイラン及びインド政府により、傭兵として利用された。特にパシュトゥン人は、トルコ人と並んで、12〜13世紀の境目に北インドを征服したグリド軍の基盤を攻勢した。また、パシュトゥン人の多数は、16世紀初めにインドを征服し、大ムガール王朝を創設した有名なバブルの軍で勤務した。質素かつ好戦的な彼らは、優秀な兵士と考えられた。ペルシャ国王も、彼らを喜んで自軍に取った。

 全パシュトゥン民族の言語は、東部イラン語族に属し、約20の部族方言を数えるパシュトゥ語1つである。最後のアフガン国王ザヒル・シャーの1936年の命令により、パシュトゥ語は、第2国語の地位を得た(ファルシー・ダリ語と並んで)。この後、30年代後半、いわゆる汎アフガン主義、言い換えれば、パシュトゥン人インテリゲンチヤ層において特に顕著な、パシュトゥン人でアフガニスタン全住民を代表し、パシュトゥ語を他の全ての民族に押し付けようとする(タリバンが今日行っていること)パシュトゥン民族主義が現れた。

 民族に基づくパシュトゥン人最初の汗国は、16〜17世紀、顕著な政治的役割を演じ始めた。ペシャワール近郊のハッタ、ヘラート及びカンダハル(タリバン運動の現在の事実上の首都)を首都とするギリザイが存在した。

 17世紀中盤から、アブダリ族(ヘラート)及びギリザイ族(カンダハル)は、イランの権力下にあった。この後、パシュトゥン人部族は、18世紀初め、イランでの内戦において、著しい役割を演じた。1722年、彼らは、イスファガンすら奪取し、7年後初めて、ペルシャ人により追い払われた。事後、彼らは、再びペルシャの統治者ナジル・シャーに服従したが、彼の死後、パシュトゥン人は、東イランを再度奪取した。

 18世紀〜20世紀前半に渡り、パシュトゥン人は、現代アフガニスタンのほぼ全土に居住した。しかし、それにも拘らず、その密集居住地区は、南部だった。北部地区の大部分において、彼らは、比較的少数民族を構成した。1849年、英国人は、パンジャブを併合し、その結果、東部パシュトゥン人部族が居住する若干の領域が、英領インドの構成下に入った。1893年、英国は、アフガン国王に協定を押し付け、それに従い、パシュトゥン人の国境部族の土地の大部分が、英領インド(現代のパキスタン)の手に渡った。いわゆる「デュランド・ライン」に沿った国境画定の実施は、パンジャブの併合と同様に、事後、東部パシュトゥン人部族の居住地帯における再三の紛糾及び緊張、後に(1947年以降)、アフガニスタンとパキスタン間の関係の先鋭化の原因となった。一方では、20世紀のいかなるアフガニスタン政府も、イデオロギー指向に関係なく、アフガン・パキスタン国境の合法性を承認せず、他方では、カブールは、パキスタンのパシュトゥン人に自治権を賦与することをイスラマバードに再三要求した。一方、これは、後者中における反政府感情を強化し、「独立パシュトゥニスタン」のための闘争のスローガンの下、武装行動を再三引き起こした。一方、イスラマバードは、自国のパシュトゥン人の分離運動の鎮火を試みつつ、このために60年代〜90年代初めにイスラム敵対派を支援し、このためにパシュトゥン人のイスラム運動「タリバン」を部分的に創設して、カブールの注意を国内問題に常に転じさせようとした。

 パシュトゥン人の大部分は、イスラム教スンニー派に属している。その一部は又、スーフィー教団、主として、カジリア、若干少数のナクシュバンジアの信奉者でもある。少数のパシュトゥン人は、シーア派に属する。この外、イスラム教の受入後、パシュトゥン人は、イスラム以前の習慣及び伝統法を完全に否定しなかった。これは、一般法的な性格の法令集「パシュトゥン・バリ」又は「ナング-イ・パシュトゥン」(「パシュトゥン人の道」)の形で、シャリアートと並んで今まで存在している。法的意義だけではく、パシュトゥン・バリは、一定のイデオロギー上の意義も有している。パシュトゥン人は、シャリアートにも、パシュトゥン・バリにも並行して指導され、当然のことながら、多くの場合、両制度間において、相違、重大な矛盾にすら出くわす。

 ムスリム聖職者階級は、伝統的に、パシュトゥン民族の生活において、重要な役割を占めており、このことは、タリバン運動の創設及び発展の事例において、今日、特に明確に観察されている。特に特権的な地位を有しているのは、預言者の子孫「セイード」出身の「聖人」の世襲集団である。一般に、パシュトゥン人は、熱心かつ狂信的なムスリムであり、この際、ムスリム以前の遺物を少なからず保持している。

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最終更新日:2004/04/09

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