第7章 暗雲迫る。

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 ドスト・ムハンマドの要求が英国人により満たされなかった後(彼は、前出のように、「第三国」に対する条約署名への同意と交換で、金、武器及びペシャワールの返還を要求した。)、カブール国王は、ロシアのエージェント、ヴィトケヴィッチ少佐と接触を確立した。後者は、英東インド会社に対して向けられたロシア、イラン及びドスト・ムハンマド間の同盟条約の締結をあらゆる手段を持って獲得することを命じたニコライI世皇帝の個人的命令により、カブールに到着した。この際、ニコライ皇帝自身は、そのような条約の条件遂行の保証の役割を引き受けた。カブールの統治者は、ヴィトケヴィッチが準備されたペルシャのヘラートへの進軍時、いかなる行動も採らないことを彼に納得させたため、原則的に、ロシア人との同盟の用意があった。服従と交換で、ドスト・ムハンマドには、英国人に対する200万ルーブルの金貨及び類似額の各種商品の援助が約束された。

ニコライI世 ちなみに、ポーランドの事件への参加に対する元流刑者、輝かしい東洋学者であるポーランド人のヴィトケヴィッチの外交的成功は、シャー・モハメッドのペルシャ軍がアフガニスタンに侵入し、ヘラートを包囲するのを可能にした。これは、1837年11月に起こった。この際、ロシア軍人、特にシモニッチ大佐がペルシャ人を顧問した。しかしながら、どちらも、地域で活動していた英諜報部エージェントの能力を考慮しなかった。11月23日、東インド会社ボンベイ軍大尉エルドリッド・ポッターは、ペルシャ軍が既に市の包囲を完了したちょうどそのとき、アフガン人に変装してヘラートに密かに侵入した。彼は、ヘラートの総司令官に自分のサービスを提案し、彼の同意を得て、5ヶ所同時に始まったペルシャ人の突入が撃退される位、効果的に防衛を組織した。その結果、10ヶ月間の包囲後、ペルシャ軍は、ヘラートから離れ、結局、所望の結果は得られなかった。

 しかしながら、英国人は、成果に留まらずに、アフガン方面への逆襲に転じることに決定した。既にアフガニスタンへのペルシャ人の駐留時、彼らは、ヘラート占領の場合、彼らとの外交関係が断絶し、英帝国は、ペルシャに宣戦を布告せざるを得ないと、シャーに警告していた。当脅迫の効果の強化のために、ペルシャ湾には、英軍艦が派遣され、バンダル・ブシェル(ちょうどそこでは、今日、有名な原子炉が建設されている。)及びクハルグ島に上陸した。この行為は、所望の効果を発揮した。軍事的失敗及びロシアの弱体な支援に失望し、並びに英国との今後の現実的衝突に仰天したシャーは、1839年2月、アフガニスタンからの部隊撤収を義務付ける協定に署名した。

 

 

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最終更新日:2004/04/09

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