イスマイル・ハーン

 ブルハヌディン・ラバニ大統領の党、「アフガニスタン・イスラム協会」党の主要活動家の1人。アフガニスタンにおけるソビエト軍駐留時、トゥラン・イスマイルの名前でより知られ、ファラー、ヘラート及びバトギス州のムジャヒディンを指揮した。かれは、59歳位で、ヘラートのタジク人、80年代にソビエト軍と戦った野戦指揮官として勇名をはせた。ソビエト軍の侵入まで、政府軍において、将校(トゥランとは、大尉に一致する階級)として勤務した。1979〜1980年のイスマイル・ハーン部隊の蜂起は、事実上、ソビエト軍に対するジハードの開始だった。ナジブラの転覆及びラバニの権力就任後、彼は、生まれ育った北西部のヘラート州知事となった。彼の戦闘部隊は、長年、タリバンに抵抗し続けた。1995年のタリバンによるヘラート奪取後、イスマイル・ハーンは、自分の側近と共に、イランに渡った。イスマイル・ハーン軍の行動地帯は、別の反タリバン連合指導者、アブドゥル・ラシド・ドスタムの戦力が支配する領域、ドスタムの党の対外政治部長に従事するアブドゥル・マリクも含まれるラスド・パフラバンと彼の弟が統治するファリアブ州と隣接していた。1997年、イスマイル・ハーンの部隊は、故郷ヘラートの奪還を試みたが、損害を出し、イスマイル自身は、捕虜となり、タリバンによりカンダハルの地下牢獄(ジンダン)に収容された。特に、アブドゥル・マリクは、反逆とイスマイル・ハーンを捕虜としたことで、北部同盟により非難されている。ドスタム将軍とアフマド・シャー・マスードは、捕虜となったパキスタン人将兵70人との交換を含めて、彼の返還を再三試みた。しかしながら、タリバン指導者は、恐らく、イスマイル・ハーンの重要性を理解し、交換に関する全ての提案を拒否した。2000年3月、イスマイル・ハーンは、脱走を実行した。イスマイル・ハーンと共に、政府軍側で行動している元ナンガルハル州知事ハジ・アブドゥル・カドゥイルの息子も逃走に成功した。2000年秋、イスマイル・ハーンは、カンダハルからの逃亡後滞在していたイランからアフガニスタンに帰国した。

 9月初め、「タリバン」代表は、ヘラートでのクーデターの試みを弾圧できたと伝えた。ヘラートでの戦闘が失敗に終わったにも拘らず、この事件は、観測気球としてしか考えられなかった。タリバン司令部によれば、8人の「陰謀者」が殺害され、12人が逮捕された。死体は、住民への教訓のために、彼らが激戦で死亡した街路から数時間片付けられなかった。あらゆる点から見て、タリバンは、州におけるイスマイル・ハーンの立場が強化されていることを理解した。2001年春、イスマイル・ハーンの部隊は、タリバンに対する戦闘行動を再開し、ヘラート、ファラー、ゴール及びバトギス州において、いわゆる「西部戦線」を開設した。イスマイル・ハーンは、隣国イランと確実な連絡を有しているものと考えられている。少なくとも、1992〜1995年のヘラート州知事在任時、イスマイル・ハーンは、テヘランと事実上独自の外交関係を有していた。彼の部隊には、ヘラートと隣接するイランの州で暮らす多くのタジク人が存在する。2001年夏の末〜秋に係わる行動において、イスマイル・ハーンの部隊は、まだ余り知られていない指導者、イブラヒム博士が指揮するファラー及びゴール州のウズベク人部隊、並びにドスタム将軍の部隊と協力している。イスマイル・ハーンは、全アフガン規模の野心を決して表さず、ラバニ大統領の優位を認める典型的な地域指導者である。

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最終更新日:2004/03/15

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