アフマド・シャー・マスード

2001年9月9日までアフガニスタン・イスラム国国防相、北部同盟指導者

 タジク人、アフマド・シャー・マスードは、1953年、パンジシェル峡谷地区において、王国軍大佐、大地主、古く、影響力のある軍事貴族の末裔の家庭に生まれた。フランス語で教育が行われたカブールの貴族高等中学校「イスチクリャリ」で学んだ。カブール工業大学工学部の2つの課程を卒業した。アフガンの王、ムハメッド・ザヒール・シャーが倒された1973年のクーデター時、マスードの家族は、新政権側の弾圧を恐れて、パキスタンに移住した。そこで教育を受け、英語及びフランス語を自由に操るマスードは、イスラム教徒に接近した。マスードは、リビア及びイラクのテロリスト訓練キャンプで教育を受けた。イスラエルに対するパレスチナ解放機構のテロ行為に参加した。アフガニスタンへのソビエトの侵攻が始まったとき、アフマド・シャー・マスードは、祖国に帰還した。この直前、彼は、アメリカ人教官の監督下、パキスタンで重要な訓練を受けた。ナジブラ親ソビエト体制の「相続」後、マスードは、アフガニスタンの31州の内、11州を手に入れた。彼が指導した領土、「マスジスタン」は、間もなく、アフガニスタンの残りの地に対する模範となった。「マスジスタン」には、経済生活が存在し、安定が到来した。しかしながら、タリバンは、マスードをその占領地から追い出し、故郷の地、パンジュシェル峡谷に「パンジュシェルの獅子」を駆り立てた。マスードの下、アフガニスタンでは、現状が維持された。彼は、パンジュシェル峡谷から追い出されず、事実上、イスラム狂信者の侵入から独立国家共同体の国境を警備していた。2001年9月9日、マスードは、タホル州のホジャ・バハウディン村で致命的な負傷を受けた。アラブのテレビ・グループに化けたカミカゼは、テレビ装置に爆破装置を仕掛け、確実を期すため、爆弾を身に付けていた。テロリストの1人は、この際、木っ端微塵になり、もう1人は、マスードの警護兵が射殺した。タリバンは、暗殺への関与を公式に否定した。

 新しい北部同盟軍司令官には、ブルハヌディン・ラバニ政府の保安相ムハンマド・ファヒム将軍がなった。あるデータによれば、ファヒムの推薦は、一連の北部同盟支援国(何よりも、ロシア及びイラン)代表と合意され、その承認を受けた。

 2001年9月16日、アフマド・シャー・マスードは、パンジシェル峡谷に埋葬された。フランス・プレスによれば、葬式には、新司令官ファヒム将軍及びアフガニスタン大統領ブルハヌディン・ラバニを含む数千人が参加した。マスードの13歳の息子は、父の意思を継ぎ、今アフガニスタンの約95%を支配しているタリバンに対して戦うことを約束した。

 タジキスタン外務省公式代表イーゴリ・サッタロフは、北部同盟軍事指導者アフマド・シャー・マスードを暗殺したテロリストの名前を挙げた。これは、ベルギーに居住権を有するモロッコ王国人だった。北部同盟代表は、マスード暗殺とアメリカの都市攻撃が、ウサマ・ビン・ラディンの組織の活動の一環であると考えている。

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最終更新日:2004/03/31

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