アフガン社会

アレクサンドル・クニャゼフ

 宗教関係において、アフガニスタン住民の差異は、かなり単純である。最も流布しているのは、イスラム教スンニー派ハナフィー派であり、シーア派約250万人は、何よりも、ハザラ人である。少数派であるシーア派の居住地は、バーミヤン州を含み、隣接州領域(サマンガン、バルフ、バグラン、パルボン)に隣接する歴史あるハザラジャート州である。バダフマン、バグラン及びタハール州には、かなり多数のイスラム教徒共同体が存在し、アフガニスタン領土におけるその中心地は、プリ・フムリ市(バグラン州)である。その外、各種民族集団では、シーク教、ヒンドゥー教、ユダヤ教が信仰されている。

 以下の表には、アフガニスタン住民の民族構成が付されている。ここでは、多様性が特に明らかである。しかしながら、この種のいかなるデータも、近似を考慮すべきである。アフガニスタンでは、正確な人口調査が決して行われなかった。同時に、1970年代中盤頃から、アフガンの住民構造には、いかなる調査にも体系的に記録されていない大きな変化が起こった。つまり、例えば、指摘されたキルギス人1万5千人の数に、大きな疑いが生じている。南西部におけるパキスタンとアフガニスタン間のパシュトゥン人の移民が誰にも監督されていない以上、記録された最大多数のパシュトゥン民族の数についてすら、語るのは非常に難しい(例えば、V.ブシュコフは、1980年代中盤、アフガニスタン住民の52%、計900万人というデータを挙げた。)。V.ブシュコフのデータによれば、タジク人の数は、80年代中盤、350万人(20%)、パミール人は、11万人に達した。90年代末までに、その数は、400万人以上に達したものと推測される。一般に認められているアフガニスタンのタジク人指導者、アフマド・シャー・マスードは、その祖先が旧ソビエトの中央アジア領域(ウズベキスタン、サマルカンド州、ダーベト居住区が、全てのパンジュシェル・タジク人の故郷と考えられている。この移住は、トルコ語族とペルシャ語族の置換による中央アジア定住期間に起こったものと推測される。このため、パンジュシェル峡谷には、代々伝えられたきた多くの伝説が存在し、峡谷には、ダーベト出身の現パンジュシェル人の移住と関連した数ヶ所のジーオラト(聖地)が存在する。)から移住した。タジク人の主要分散領域は、バダクシャン、タハール、ヘラート、ジョーズガン、サマンガン、バルフ、クンドゥス州、並びにパンジュシェル峡谷及びシャモリ峡谷(カブール、パルボン、カピサ州領域の一部)である。

 ソビエト・アフガン戦争時代及び継続する内戦中に国を離れた膨大な難民の数も考慮する必要がある。それにも拘らず、住民構成における各民族の割合に関する概要を与える以上、提示されたデータに注意を向けることは、可能かつ必要である。

アフガニスタン・イスラム国住民の民族構成

民族 千人
イラン系 14,800
パシュトゥン人 7,500
タジク人 4,800
ハザラ人 1,500
チャル・アイマク人 500
フィルズクリ人 125
ジャムシド人 115
タイマニ人 110
テイムリ人 100
ハザラ・イ・カライ・イ・ナウ人 50
インド・アーリア系 190
パシャール人 110
パンジャーブ人 30
ジプシー 20
インダス・チライ人 20
ジャート人 10
パミール系 170
ベルジ人 110
ペルシア人 40
クルド人 10
オルムリ人 5
パラチ人 5
トルコ系 1,920
ウズベク人 1,300
トルクメン人 545
アフシャル人 35
キルギス人 15
カザフ人 5
ヌーリスタニ系 160
ヌーリスタニ人 60
ブラグイ人 45
アラブ人 35
モゴル人 20
その他不詳 47
カラカルパク人 3
ウィグル及びグジュル人 2
ユダヤ人 1

 駐国連アフガニスタン・イスラム国大使、ラバン・ファルハジ博士は、アフガニスタン住民の民族・宗派構成に関する別のデータを提示している。しかしながら、アフガン社会の偏見が深く定着しているため、全てのアフガン国内の評価の主観性を考慮する必要がある。

アフガニスタン・イスラム国の民族・宗派構成(R.ファルハジのデータによる)

スンニー派 84% シーア派 15.08% イスマイル派 0.02%
パシュトゥン人 30% ハザラ人 パミール人
タジク人 30% キズルバシュ人 カイアン人
ウズベク人 10% ヘラート人(一部)
ベルジ人 5%
ニムルズ人
ヘラート人
アイマク人
パシャイズ人
ヌーリスタニ人

 それでなくても複雑な民族(従って、政治も)様相を更に複雑にする補足要素は、アフガニスタンに居住する事実上全ての大民族の分離性である。このかなり明らかな事例は、アフガニスタン最大の民族、例えば、タジク人である。1992年末〜1993年初めにアフガニスタン北部に追いやられた人民戦線部隊であるタジク人敵対派とその家族は、この地区において、タジク人親族その他の住民が出迎えた。その上、多くの若いタジク人がアフガニスタン北部に自分の親族を有している以上、親戚は、広い民族的概念だけではなく、単に人間的なものでもあった。ピャンジ(上流での川の名前は、グント)の右岸にも、左岸にも昔から住んでいたパミール人、ルシャン人、シュグナン人、イシュカシム人等、タジキスタンのゴルノ・バダフシャン自治州の住民も、アフガニスタンに同じ親戚を有していた。タジキスタン南部とアフガニスタン北部のトルコ語族その他の住民が、近親だった以上なおさらである。ウズベク人、トルコ人、アラブ人等の民族が、あちこちに住んでいた。そしてここでは、部族的統一、例えば、アムダリヤ両岸にウズベク人のカッタガン族、クングラド族、カルルク族、ケネゲス族等が住んでいただけではなく、氏族及び親族レベルでの統一も認められた。M.ラマウリン(カザフスタン共和国大統領附属戦略研究所)のデータによれば、アフガニスタン及び隣接国に居住する分散民族の民族動態地図は、以下のように見られる。

アフガニスタン パキスタン タジキスタン ウズベキスタン トルクメニスタン イラン
パシュトゥン人 800〜900万人 1,300〜1,400万人
タジク人 約400万人 350万人
ウズベク人 170万人 1,900万人
トルクメン人 50万人 200万人 70万人
ベルジ人 17万人 310万人 100万人

 政治過程を含む国の発展の状態及び動態の理解に対して重要な意義を有するもう1つの要素に、民族領域を挙げることができる。つまり、パシュトゥン人は、特にギンドゥクシュ南方に居住している。同時に、これらの地区において、彼らは、全土を満遍なく占めておらず、タジク人、ハザラ人、ベルジ人及びブラグイ民族と共に分散して(正確に言えば、地形・気候地帯により)居住している。南部では、著しい数のパシュトゥン人(同じことは、ベルジ人及びブラグイ人にも関係する。)は、遊牧又は半遊牧生活様式を行っている。19世紀後半に移住し始めたギンドゥクシュ北方のパシュトゥン人の数は、多くはないが、民族政治生活において、重要な役割を果たしている。現状の理解に対して非常に重要なのは、民族分野に係わる次の事実である。アフガニスタンにおける「タジク人」の名称の使用は、ファルシー語を話すパシュトゥン人も含めて、出自が異なる集団も時折そう呼ばれるため、常に正確という訳ではない。これは、正に主として、バトギス、ファリアブ、タハール、クンドゥス州等に分散して居住する「北部」パシュトゥン人のことである。

 アフガニスタン住民の3番目に大きな集団は、ウズベク人である。V.ブシュコフのデータによれば、その数は、1986年、150万人、住民の約9%に達した(90年代末までに、恐らく、200万人以上)。ウズベク人は、ポスト・ソビエトの中央アジアと隣接する州、つまり、今のファリアブ(州都:マイマネ市)、ジョーズガン(シベルガン市)、バルフ(マザリ・シャリフ)及びクンドゥス(クンドゥス)州と事実上地域的に一致するかつてウズベク人の独立公国が存在したチョル・ビロイエトという歴史的名称を有する領域(マイマネ、アフチャ、バルフ及びクンドゥスの4州)にかなりまとまって住んでいる。かなり多数のウズベク人は、タハール州の沿国境地帯(ダシュト・イ・カラ、ヤングギ・カラ、ホジャガル、チョヒ・オビ市等の地区)にも存在する。

 アフガニスタンにおける資本主義的関係の発展とブルジョア社会層の形成は、20世紀初頭から始まり、アマヌロ・ハーン国王の改革(1919〜1929年)と関連するとされる。商品・貨幣関係の発展は、それまでアフガン社会の主要階級であった農民の財産上の階層分化を促進した。現物税の金への交代、地主土地所有の成長、1923年の国有地売却法の採択及び土地所有権の法的手続、最初の産業企業並びに輸送及び通信システムの出現、一緒に取られたこの全ては、社会・経済システムの近代化を可能にしたが、特に農村の生活様式の保守主義を考慮すれば、前資本主義的関係が優勢なままだった。商品生産と商品・貨幣関係は、70年代でも、若干の最も経済的に発展した地区においてだけ、重要な立場を占めた。多くの地域(南部のパシュトゥン人州、並びにハザラジャート、ヌリスタン、バハン)では、現物及び半現物交換形態の経済及び社会組織が優勢であり続けた。これらと関連して、並びに近代アフガニスタンにおける社会関係がいかに形成されたのかという最良の理解のためには、経済関係が国家法令ではなく、アダート、慣習法、地域伝統及び習慣、並びに通常氏族の指導者である主要土地所有者の権威により規制された(そして規制され続けている)ことすら指摘する必要がある。公式データによれば、耕作地の45%を所有する一族の数は、70年代までに約1,200人に達した。同時に、農民のほぼ3分の1は、一般にいかなる生産手段も有さず、このようにして、地主への完全な奴隷的依存にあった。産業企業の少数の労働者(約25万人)は、農村との安定した関係を維持し、伝統的関係の範囲内に留まり続けている。

 上記のことに立脚して、アフガニスタンで起こった過程の社会基盤が、過去数十年間、前資本主義的関係からブルジョア階級関係への過渡期であり続けているとの結論を下すことができる。1952年までに活動した少数の社会運動及び組織(例えば、「覚醒した青年」、「ビシュ・ザリミヤン」は、1947年までに形成された。)の活動は、既存の伝統的関係システムを無視し、住民大衆との意義があり、実質的な関係を少しも有していなかったため、いかなる成果もなかった。1952年、社会組織の活動が禁止され、地下社会・政治活動の伝統の基礎が置かれた。各種集団の行動は、通常、2つの方面で展開された。第1に、民間大資本の経済的特権の廃止及び中小ブルジョアジーの企業活動を容易にする措置の採択のためである。第2に、地主及び大資本の政治権力の独占の反対、政党創設権から始まり議会に対する政府の責任に終わるブルジョア民主制度の承認への賛成である。

 アフガニスタンの具体的な歴史的条件下において、この複合目的は、上から実施された改革に一致していた。実際、社会の資本化の要求に既存の社会関係を適応させために段階的改革を実施する支配層の試み、社会の階級構造を変えることなく維持する希求は、結果的に、体制の社会基盤、何よりも、中間層の拡大の必要性をもたらした。特に中間層は、新機軸を受け入れ、アフガンの伝統的価値にそれを適応することができた体制の基盤だった。同時に、外部の投資及び技術源への要請による改革の試みは、一連の対外政策問題を緊張させただけだった。アフガニスタンの地政学的意義は、外部からのいかなる経済援助も、何らかの政治方針を追及する要求と一致していたことだった。40年代既に、アフガニスタンは、パシュトゥン問題に関するアフガン・パキスタン間の矛盾を利用して、その主権を破壊しようとする一連の西側諸国の試みにも直面した。同時に、カブールでは、平和的手段のみによるこの問題の解決が、一種の国家的課題として見られた。アフガン社会自体の政治・民族性及び他の民族とパシュトゥン系アフガン人の関係における問題要素の存在を考慮すれば、パシュトゥン問題の過度の誇張は、対外政策様相においてですら、国内党派の不安定化を孕んだ。

 国内の政治・経済状況は、疑いなく、社会関係の何らかの地位の承認にも反映している。そして、最終的に形成された一枚岩としてのアフガン人について語るのは難しいが、英国に対する独立を賭けた戦争中、全ての社会集団の自意識には、あらゆる点から判断して、複数のレベルを有する自己アイデンティティが形成された。パシュトゥン人、タジク人、ハザラ人等の民族。スンニー派、シーア派、イスマイル派という宗派。アフガン人という国民。典型的なのは、全てのアフガン人が、民族・宗派の所属に関係なく、国の分割に関する交渉を受け入れないことである。彼らにとって、アフガニスタンは、唯一かつ不可分である。

 特にそれ故、各種民族及び民族・宗派集団の精神的相違並びにこれらと関連した礼儀を含む行動の各種特性と並行して、この行動のある弱点、アフガン精神の弱点も存在する。その基盤は、アフガンのダリ語族(タジク人、ハザラ人及びパシュトゥン人を含む。)のムスリム以前の伝統から発するアダブの概念である。「パシュトゥンバリ」の名前で知られるパシュトゥン人の民族精神的かつ法的伝統法典は、事実上、パシュトゥン人の伝統的な行動規準により独自に補足されたアダブである。ペルシャ語族のそのような伝統の1つは、人間の行動の内面と表面上の構造統一である。言い換えれば、圧倒的多数のアフガン人は、具体的な条件及び状況に自分の高度を合わせずに、自然に振舞っている。この特性が何らかのリーダー又は指導者への態度に現れているのは、非常に明らかである。ちなみに、ペルシャ語系アフガン人のこの伝統が、長期間の共存(分散居住)の結果、ウズベク人、トルクメン人、アイマク人等、他の民族にも著しく特有のものとなったと指摘することができる。

 アフガンの民家及び軍事インテリゲンチヤの形成は、極めて緩慢だった。最初の近代型教育施設は、世紀の初め、カブールに現れた(1903年、ドイツ人の指導下で活動した「ハビビヤ」高等中学校、1907年、軍事学校、1932年、カブール大学)。事後の国史にとって、少なからず重要だったのは、軍事インテリゲンチヤの形成が、民間インテリゲンチヤの発展を上回る速度で起こったことである。将校階級の形成は、更に2つの特性も有していた。第1に、将校の圧倒的多数は、パシュトゥン人だった。第2に、事実上、全ての将校は、国外、西側諸国、インド及びソビエト連邦で教育を受けた。ソ連では、アフガニスタンの全ての軍人及び技術専門家の約15%が訓練を受けた。

 アフガンのインテリゲンチヤの形成が極めて緩慢だったにも拘らず、社会生活における伝統的宗教階層の役割は、全く減少しなかった。ウレムは、中世の伝統的なムスリム・インテリゲンチヤ階級、法学者かつシャリアートの識者であり、生活において、インテリゲンチヤよりも重要な役割を演じている。ウレムの階層は、一様ではない。ここには、ファキフ及びムフチヤ(複雑な法的及び宗教法的問題に関する決定を下すシャリアートの識者)、カジ(裁判官)、ムダリス(宗教教育施設、メドレセ及びダル・プル-アラムの講師)、ムフタシブ及びアリフ(公共場所における道徳及び秩序の監視者)、並びにムラー、イマム及びハティブ(モスクの聖職者)が属する。アフガニスタンにおけるウレムの総数は、最も控えめな見積によれば、過去数十年間、決して25万人を下回らなかった。ウレムの影響の中心地は、アフガニスタンに十分存在する。メチェーチは、70年代末に1万5千以上、マザールは、全ムスリム的意義を有するもの(ヘラートには、ホジ・アブドゥロ・アンサリ・ヘラビ・ヘラート(1006〜1089)の墓所が、ガズニには、サナイ・ガズネビ(12世紀)、マザリ・シャリフには、イスラムの「敬虔」な第4代カリフ、アブ・アリ・イブン・タリバの7つの墓所の1つが存在する。17世紀から、カンダハルには、預言者のベール(ヒルガ)が保管されている。)を含めて、約1,500存在する。イスラム教育の大中心地は、ヘラート、マザリ・シャリフ、マイマネ、クンドゥス、カブール及びガズニである。17世紀から、アフガンのイスラム・インテリゲンチヤに大きな影響を与えているのは、インドのイスラム宗教学校、特にデオバンド運動である。特に、インドのムスリム層との積極的な接近は、20世紀初頭に起こった。これは、アフガニスタンの王政転覆とモハンマド・ダウドの共和国樹立(1974年)に至るまで継続した。それにも拘らず、デオバンド運動は、アフガニスタンの宗教システムの形成に決定的役割を果たさなかった。1945年頃から、近東とアフガニスタンのイスラム層の活発な協力が始まった。アフガニスタンの宗教教育施設では、カイロの大学「アル・アズハル」の講師達が積極的に働いている。カイロでは、多数のアフガン人が教育を受けた。特に、この協力の方向において、アフガニスタンでは、「イフバン・ウリ-ムスリモン」、「ムスリム 同胞団」運動組織が生まれた。アフガンのシーア派は、クムイ市(イラン)及びネジェフ(イラク)の高等教育施設で教育を受けた。この全ては、勿論、政治的意義を有している。

 恐らく、部族関係システムから発すると思われる指導者への絶対服従、それへの一定の崇拝の伝統は、現代の条件下において、民族・政治状況を通して変化し、政治指導者に推移した。例えば、ハザラ人の精神的指導者と民間指導者が1人の下に団結すれば、タジク人又はウズベク人の宗教要素は、もはや著しく小さな役割しか果たさない。恐らく、これが最も明らかに現れているのは、アフマド・シャー・マスードの事例であろう。定期刊行物には、マスードへのタジク系アフガン人の関係に関する既に形成されたステレオタイプな紹介が存在する。原則的に、90年代から2000年8月に至るまでの各時期に、著者自身が観察する機会を有したところによれば、このステレオタイプは、大部分において、事の現状に一致している。

 この事実からは、近代アフガンの軍事・政治の現実の重要な特性が導き出される。何らかの指導者による政治的信条の交替は、彼に従属する何らかの軍事部隊側への移行も同時に意味する。政治的再結合が頻繁な状況下において、これは、1990年代のアフガニスタンに直接当てはまり、上記の要素は、軍事・政治事件の全過程を顕著に複雑にしている。地域権威者の立場は、国内状況に著しく強い影響を及ぼしている。彼らは、権力者又は他の全国民的規模の勢力のあらゆる決定又は行動の何らかの現地住民による民族精神的及び社会・政治的評価の性格を決定している。

 同時に、歴史的発展の特性のため、多くの場合、アフガン精神にとって典型的なのは、統一中央集権国家への所属に関する理解を犠牲にした地域主義の優勢である。「・・・彼らの国家権力への確固たる憎悪と個人的独立への愛着は、彼らが強力な国民となることを妨げている。しかし、特にこの衝動と行動の不安定は、一時的感情の影響に曝され、彼らを上手く熱狂させる政治的陰謀により簡単に引き込まれる危険な隣人に彼らを変える」。

 上記のことからは、アフガニスタンにおける政党その他の政治的機構の以下のような基本特徴が導き出される。

bulletその意義が些細な範囲で変化し、常に重要な役割を演じる義務的宗教要素の存在
bullet明確に表現された民族的及び宗派的規準
bullet大多数の集団の地縁性
bullet通常、何らかの外部勢力を指向した軍人の重要な役割
bullet非常に高度の統一指導

 アフガニスタンで最初の近代型政治組織は、ハビブラ・ハーン国王の統治時代(1901〜1919年)に現れ、「マシュルータ」(「憲法」)又は「アフガン青年」の名前で歴史に加わった。組織は、非合法に活動し、警察のエージェントにより摘発され、1909年、壊滅した。1947年、社会運動「覚醒した青年」が生まれ、その活動は、サークル及び啓蒙的性格を帯びた。1964年、アフガニスタンにおいて、政党の活動が許可された。1965年、アフガニスタン人民民主党(NDPA)が設立され、1967年、「ハリク」(「人民」)と「パルチャム」(「旗」)の2つの事実上独立した派閥に分かれた。60年代末までに、左翼毛沢東主義過激派「ショアレイ・ジャビド」(「永遠の炎」)からイスラム右翼過激派「イフバン・ウリ-ムスリモン」(ムスリム 同胞団)及び「ムスリム青年」までの全様相の政党及び運動が既に活動していた。モハンマド・ダウドの権力就任(1973年)後、政党活動は、禁止され、それら全ては、地下に潜った。

 ダウド大統領の下でのアフガニスタンの近代化過程の発展は、国内の敵対派の成長をもたらした。敵対派の出現は、以前に他のムスリム国家で起こったような合法性の方向で起こった。一方、社会の近代化の結果発展した社会層の代表は、在来エリートの一部と共に、アフガニスタンの近代化の不十分な速度への不満を表明した。先ず第1に、これは、軍の中堅及び下級将校、都市インテリゲンチア及び中堅官僚に関係を有していた。特にこれらの住民グループは、1965年に設立されたアフガニスタン人民民主党の社会基盤も構成していた。他方、彼らの意見によれば、社会の近代化がイスラムの価値に及ぼす脅威に反対する敵対派も現れた。この敵対派の中では、当時既にダウド大統領体制に対して最初の武装行動を組織していたグリベルディン・ヘクマティヤルが傑出していた。特に、アフガン紛争、特にソビエト軍の最終的撤退後の事後の発展の経緯は、1970年代のこの敵対派の発生と関連している。

 国際組織「ムスリム同胞団」と関係したイスラム敵対派の中心地は、カブール大学だった。1975年、ヘクマティヤルは、パキスタンに移民し、そこで、この段階において、ブルハヌディン・ラバニ、ユヌス・ハレス、モハンマド・ナビ、アフマド・シャー・マスード、カズイ・アミン、アブドゥル・サイヤフ、セイード・オマル、セグバトゥロ・モジャダディ、セイード・ゲイラニ等、他の多くの武装イスラム・アフガン敵対派指導者が加わったイスラム党を創設した。各種ムスリム組織、並びにパキスタン及びイラン特務機関の影響の下、ヘクマティヤルの政治・宗教的見解は、ますます最大限要求主義的となり、このことは、党の分裂をもたらした。最初に、カブール大学講師ブルハヌディン・ラバニが去り、4月革命後、ユヌス・ハレスの集団が離れ、その後、S.モジャダジ、S.ゲイラニ等が独自のグループを設立した。

 1978年の4月(サウル)革命は、以前に他のイスラム国家数ヶ国で起こっ類似の運動のシナリオで行われた。1956年のエジプト、リビア、イラク、シリアと同様、中堅及び下級将校の支持の下、軍事クーデターの結果、アフガニスタン人民民主党出身の伝統的社会生活における近代化の促進の過激的支持者が、アフガニスタンの権力に就いた。カブールでの軍事クーデターは、当初、国内に何らかの大規模な抵抗を引き起こさなかった。伝統的なアフガン社会は、4月革命を国内統治の歴史的伝統の継続として受け入れた。人民民主党の一連の指導者(タラキ、ナジブラ)が伝統的なパシュトゥン貴族に属していた以上なおさらである。しかしながら、静けさは長くはなかった。対立が非常に早く武装闘争の局面に入ったのは、全く当たり前だった。ダウドの世俗体制は、伝統主義に傾く各種住民層を統合する敵対派を満足させなかったが、私有の排除と社会主義の性急な建設に向けられた人民民主党の行動は、社会主義的実験を全く準備していない広範囲な国民の大量離反を引き起こした。恐らく、新カブール体制の最も恐るべきミスは、1978年に始まり、80年代初めに強化された宗教対策であり、反応となったのは、抵抗運動、ジハードの形成だった。

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最終更新日:2004/03/15

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