ワシントンの割に合わぬ勝利

アフガニスタンにおけるソ連に対する戦いの最中、米国は、自国にとってより危険な敵を育て上げた。


独立軍事評論
レム・セルゲーヴィッチ・クラシリニコフ、1949〜1992年ソ連KGB職員、退役少将

 アフガン戦争は、我が国の歴史の最も劇的なページの1つである。

 かつて、この中央アジアの国では、ソビエト連邦と米国間の秘密戦争の最も重要な戦線の1つが行われた。この対峙の結果は、今日、モスクワでも、ワシントンでも、簡単には思い出すことができない位、予期せぬものとなった・・・。

 ・・・しばしば、レーガン大統領のものとされる「秘密の」フレーズがある。「アフガニスタンは、ロシア人にとってのベトナムに変える必要がある」。それにも関わらず、この場合、発言者は重要ではない。重要なのは、別のことである。特に、この戦略方針を選択したのは、ワシントンであった。ホワイトハウスでは、中央情報局が「主敵」に対する攻撃における打撃戦力とならなければならないと決定された。

大使館支局

 アフガニスタンの首都における米国外交代表部の中央情報局の支局は、地理的に、事件発生現場にどこよりも近く、実を言うと、その震源地に存在した。勿論、そこで、CIAの諜報員は、大使館の「カバー」の下でのみ活動していた。特に、駐カブール大使館支局は、権限を移譲されたに違いないと思われた。というのも、外交カバーは、基本的な破壊業務を遂行するために、一定の長所を与えていたからである。実際は、そうではなかった。ワシントンが自分の諜報外交官を信頼していなかったためでもない。彼らは、「アフガニスタン」作戦において、尊敬すべき地位を占めていた。ラングレーでは、遠国に大きな注意が常に払われた。70年代のCIA長官リチャード・ヘルムズを含む中央情報局の高官がカブールを訪問したのには訳がある。

 しかしながら、アフガニスタンにおける作戦状況は、米国特務機関の活動にとって容易ではなかった。そこでは、ソビエト連邦に隣接する他の数ヶ国のように、親西側、親米体制を植え付けることができなかった。保安及び警察機関では、アメリカ人顧問が運営していなかったため、彼らは、ワシントンからの命令に従わなかった。

 それにも関わらず、アフガニスタンにおける諜報業務実施のための能力は、カブール自体でも、他の都市でも、少なからず存在した。CIA及び米国の他の特務機関は、それらを積極的に利用した。アメリカ情報共同体の巨大な資源は、これを可能にした外、「ソビエト方面」への資金は、惜しまれなかった。

 CIAカブール支局では、中央情報局の他の多くの国外代表部と同様に、「ロシア」(又は「ソビエト」)部署が創設され、それには、在アフガニスタン・ソビエト代表部(大使館、貿易施設、国連附属使節団)に対して監視を行い、その構成下でアメリカ諜報部との協力を説得し得る人々を見つける任務が付与された。「ロシア・グループ」は、この任務に従い、ソビエト市民との作戦業務経験、接触の確立及びエージェントの徴募において必要な熟練度を有する熟練し、根気強い諜報員により充足された。

 支局でのエージェント業務は、義務的範囲で付与されたが、十分秘密裡に行われた。エージェント及び信頼すべき筋と支局諜報員の個人的接触、秘密作戦、仮住所宛の手紙、無線通信等、スパイ行為に古典的な全ての付き物が使用された。大使館の建物には、特殊送受信装置が設備された。エージェントは、人工衛星システム「フリットサットコム」を通した通信のための装置を補給された。

 カブールには、米国家安全保障局も展開した。アメリカ大使館では、部外者から確実に防護された地帯に、NSAの特殊部隊が存在した。

 軍事紛争の開始まで、その電子装置は、所有する機材が許す限りにおいて、アフガン政府施設及びソビエト代表部での会談及び交渉の監督のために使用された。ソビエト軍のアフガニスタン進入後、米国大使館におけるNSAの通信所のために、ムジャヒディンに対して行動するアフガニスタン民主共和国に存在するソ連軍及びアフガン政府軍部隊の無線中継及び無線電話通信線からの情報の傍受という新しいプログラムが立案された。カブール大使館のNSA通信所の業務に積極的に参加したのは、その時までに、モスクワでの無線電子諜報においてかなりの経験を積んでいたジャック・ロバーツだった。

 駐カブール・アメリカ大使館から獲得された情報は、機動的にムジャヒディンに伝達された。これは、他の諸国及び地域における無線電子及び宇宙写真諜報によって、国家安全保障局により獲得されたアフガニスタンに関係を有する資料への重要な「助け」及び補足だった。

パキスタンにおける作戦要員

 主要拠点として、CIAは、当時、忠実な関係により米国と結び付き、劇的なアフガン情勢に独自の見解を有していたアフガニスタンに隣接するパキスタンを選定した。

 アフガン紛争の発生時から、パキスタンは、その主要参加国の1つとなった。同国は、自国の積極的な役割を世界から隠そうとしなかっただけではなく、米国の庇護下で組織された、サウジアラビア、エジプト、英国その他の数ヶ国の「アフガンの抵抗」支援のための連合国とは異なり、アフガニスタンで燃えさかる内戦に干渉しようとすらした。

 ワシントンにはまた、アフガン紛争への自国の干渉を隠すべき理由が存在した。その「南の下腹部」におけるソビエト連邦に対する特殊作戦は、最高機密でなければならなかった。その最終目的が「主敵」の除去であった冷戦中に計画及び実施された全てのように。そして、アフガニスタンにおいて、アメリカ人は、他人の手で戦うことを欲していたからである。

 何れにせよ、パキスタンは、反政府勢力支援の主要橋頭堡、ムジャヒディンの戦闘訓練基地、その確実な後方に変わり、そこで、彼らは、受けた負傷を治療し、新たな戦闘の前に戦力を集めた。同国は、ムジャヒディンのための秘密ルートにより運搬される兵器及び弾薬の武器庫、巨大な積み換え地点となり、そこから、アフガニスタンに、「無神論者との戦士」に必要な装備を乗せた貨物が溢れんばかりに流れた。そこでは、軍事作戦が計画され、戦闘行動方法が立案され、「イスラムの敵」との戦争のプロパガンダ保障が形成された。パキスタンでは、最終的に、つい最近、「タリバン」運動が生まれた。正確に言えば、形成された。

 更に、この全てがワシントンからの指令に完全に従い実施されたことを指摘しておく。

 現地レベルにおいて、各種反アフガン活動の主要指揮機関となったのは、パキスタン諜報部である。その手により、米CIAは、ソビエト連邦に「出血」を強いつつ、多くのことを行った。

 ソ連に対する諜報・破壊行為を指導したセンターは、パキスタンの首都、ラワルピンディ−イスラマバードにおける米大使館に位置したCIA支局であった。支局の下には、タスクフォース・アフガニスタン(Task Force, Afganistan)が創設され、そこでは、作戦計画が立案され、その後、ラングレーで承認された。ここから、ムジャヒディンの指導者及び野戦指揮官に具体的な指令が送られた(主として、パキスタン諜報部のルートにより)。ここでは、その支隊の物資・機材補給問題が合意され、まとめられた。

 タスクフォース・アフガニスタンは、巨大な職員定数と、ほぼ無制限の財政資源を有していた。タスクフォースの指導者には、パキスタンの首都におけるCIA支局長が任命された。

 1980〜1983年のアフガンの「大事件」当初、指導者は、ハワード・ハルトだった。パキスタンまで、彼は、インド及び近東における国外諜報部署で働いていた。ハルトは、極めて経験豊富な諜報員ウィリアム・パイクニーと交代した。彼の履歴書は、パリ、チュニス及びコナクリ(ギニア)におけるCIAのラインによる勤務を含んだ。パキスタンで規定の3年を勤め上げ、パイクニーは、これまで西ドイツ、香港、アフリカ諸国において「しかるべき」活動に従事していた当時のCIA作戦局ソビエト課副課長ミルトン・ビルデンに、その「戦闘ポスト」を譲った。

 タスクフォースの作戦要員及びパキスタンに特別に派遣されたラングレーの他の職員は、しばしば、「顧問」及び「教官」として現れ、パキスタンのムジャヒディンのキャンプにおいて戦闘員の教育に従事し、アフガニスタンへの彼らの移動、武器及び弾薬の彼らへの輸送に関する作戦に参加した。彼らは、アフガン人及び他の民族の代表からエージェントを訓練し、彼らのために諜報任務を立案し、アフガニスタン領土への彼らの越境を組織した。

 若干の事例において、アメリカの諜報員自身が、アフガニスタンに侵入し、ソビエト軍に対する戦闘行動に参加し、捕虜となったソビエト軍人を尋問し、彼らの内、CIAが徴募に適した候補者とみなした者の工作のための条件を準備した。誰かを協力に誘うことができた場合、徴募されたエージェントは、CIAの監督下にあるマスコミ、特に、ラジオ局「フリーダム」及び「ボイス・オブ・アメリカ」を通した「心理戦」行為における利用のために、欧州又は米国に移送された。

「グレート・ジャーニー」

 1980年の大統領選に勝利した自分の後援者の決定により、ウィリアム・ケイシーは、第11代CIA長官となった。ロナルド・レーガンへの影響力を利用して、彼は、閣僚のメンバー(以前、諜報部指導者には属していなかった。)及び権力絶大な国家安全保障会議の指導層における地位を獲得した。

 CIAの歴史において、ウィリアム・ケイシーは、恐らく、最も有力な長官であった。その数人の前任者とは異なり、ケイシーは、閣僚の中には属しなかった。彼は、ワシントンのサロンの愛好家でもなかった。「ビル爺さんは、現地で事件の過程を指導するのが好きだった。政治、集会、首都の陰謀等、ワシントンでのこの雑踏全ては、彼の心になかった」と、アメリカの作家ピーター・シュヴァイツァーは、冷戦終結期に関するセンセーショナルな自著「勝利」において、彼について語った。

 アフガニスタンは、直ちにCIA長官の特別の注意の対象となり、ラングレーのボスの多くの旅行は、何れにせよ、アフガン紛争と関連した。このために、ケイシーには、レーガン大統領との直通手段並びにワシントン及び支局との通信装置を装備された自家用機C-141「スターリフター」が待機していた。アメリカ筋を利用すれば、CIA長官のポスト就任期間に渡り、ウィリアム・ケイシーは、1981〜1984年だけで、35〜40回以上の国外旅行を実施したと計算することができる。彼がパキスタン、サウジアラビア、エジプトその他の近東諸国を再三訪問したことも含めて。

 ラングレーの主人と、ウィリアム・クラーク、ジョン・ポインデクスター、リチャード・パイプス、ビンセント・カンニスタルト等の国家安全保障会議の彼の同僚は、ソビエト連邦に対する「心理戦」の組織に優先的注意を払った。この際、「アフガニスタン」のテーマと関連した指向性情報及び偽情報資料の流布のために、公式及び外交ルート、マスコミ、「ボイス・オブ・アメリカ」、BBC、「フリーダム」、「自由欧州」、「ドイツの波」等、政府及び非政府ラジオ局が使用された。ムジャヒディンは、あらゆる手段をもって、表彰台に引き上げられた。彼らのリーダーは、ワシントン及びロンドンにおいて、最高国家レベルで受け入れられ、彼らには、広範囲な外交援助が提供された。

 同時に、集中的工作に処せられたのは、世界世論である。「洗脳」の主要目的は、アフガニスタンにおけるその化学兵器の使用に至るまで、全ての死におけるソビエト連邦の非難であった。ソ連の誹謗中傷のために、国際「会議」、アフガニスタン問題に関する仰々しい「公聴」が催された。

「共産主義者に血を流させろ」

 ワシントンの計画によれば、ソビエト連邦に対する最も強力かつ最も刺激的な打撃は、ムジャヒディンの軍事援助により、彼らの手により与える予定だった。これらの計画は、アメリカ諜報部及びウィリアム・ケイシー個人の見積及び行動において、特別の地位を占めた。

 アフガン紛争は、ソビエト連邦へのウィリアム・ケイシーの憎悪の実現のために豊かな機会を与えた。例えば、アメリカ筋によれば、ラングレーのボスが「アフガニスタンの共産主義者に血を流させる」ことをCIA職員に要求したことが知られている。

 アフガニスタンにおける「ロシア人の虐殺」の組織は、このアメリカの行為の秘密性の保持の下、周知の機敏さと膨大な支出を要求した。何れにせよ、ワシントンには、制限がなかった。ラングレーでは、戦争に必要な全てのムジャヒディンへの確実な補給ルートが整備され、武器及び弾薬が満々と「自由の戦士」に流れることが監督された。CIAのボスは、個人的にかつ自分のタスクフォースを通じて、パキスタン諜報部及び独自の能力を利用して、戦闘行動の展開に関する指示をムジャヒディンに伝達した。戦術問題に関する具体的な勧告及び「助言」、ソビエト軍、その配置及び移動に関するデータを含むアフガニスタンに関してアメリカ特務機関により獲得された情報である。

 パキスタンを通したムジャヒディンへの兵器及び弾薬の納入、彼らに引き渡される軍事機材の速度は、年々増大した。1985年、それらは、前年度の類似納入の5倍を既に超えていた。ピーター・シュヴァイツァーにより引用された数字は、印象的である。同1985年だけで、擲弾筒10,000挺、ロケット弾200,000発であった!ムジャヒディンは、火器の数と質に不平を言えなかった。その主要納入国は、アメリカ人がソビエト製武器を購入していたエジプトだった。

 アフガンの反革命主義者の軍事技術支援の極致は、疑いなく、アメリカ陸軍の誇りである対空ミサイル「スティンガー」の彼らへの引渡である。敵の航空隊との戦闘を効果的に行い、その飛行機及びヘリを撃墜できるこの最高機密武器は、入念に警備されていた。「スティンガー」は、外国人への引渡又は売却の対象ではなかった。そして、それが大変高価だったからではない。ペンタゴンでは、ムジャヒディンからロシア人の手に渡るため、引き渡すべきではないと考えられた。今ここで、ムジャヒディンへの「スティンガー」引渡の支持者と反対者は、問題の運命を大統領に委ねた。レーガンは、躊躇しなかった。彼の意見によれば、ソビエト連邦を降伏させなければならないとの決定採択時、疑いもせずに。ムジャヒディンは、結果的に、1,200発以上の「スティンガー」及びその使用の教育のためのアメリカ人教官を受け取った。それらは、事実上、アフガニスタンにおけるソ連軍に重大な損失を与えた。

何のために戦ったのか?

 1989年、ソビエト連邦は、南の隣国領土から自国軍を撤収した。ワシントンでは、「アフガニスタン」作戦の勝利を祝うことができた。実際、ケイシーは、それを待ちおおせなかった。死病に倒れた彼は、1987年に死去した。しかし、機械の歯車が始動し、既に逆回転することはなかった。

 ソビエト軍の撤退後、アフガニスタンにおける内戦は、終わらなかった。紛争の炎は、従来通り、国の富と人々の所有を破壊しつつ、アフガン人を焚き付け、ロシアだけではなく、全世界共同体も緊張させている。

 ソビエト連邦が支援したアフガニスタン人民民主党、その新しい指導者で、政府の長であるナジブラは、事実上、ロシア側からの軍事も、政治・外交も、経済も、いかなる援助もなしに、1992年まで持ちこたえた(早期崩壊に関する予想にも関わらず)。それにも関わらず、アフガニスタンにおけるナジブラの権力就任は、自由化及び敵対者との和平の道の模索側へのアフガン指導部の内政における周知の転換を意味した。しかし、ソビエト連邦では、1991年8月の事件が起こった。ナジブラ政府の支援からのロシアの離脱は、アフガニスタンにおける勢力バランスの変化をもたらし、この体制が受入難いものとなることよりも優先した。

 今日、ソビエト連邦存在の最後の時代と最初のポスト・ソビエト時代に、ロシア指導部により行われた無思慮な政策の苦い果実を刈り取らなければならない。

 しかし、1人の敵を片付けようとして、その代わりに、暴力、テロ及び彼ら自身の利益への脅威をもたらしつつ、別の敵がやってきたのを見落とした西側勢力も、喜ぶにはほど遠い。彼らは、今、タリバンが与えた脅威を彼らが明らかに評価しきれなかったことを苦々しく認めざるを得ない。まあ、「自業自得」である!

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最終更新日:2004/03/15

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