アルジェリアの情報機関

■情報共同体

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研究・保安部(Departement de renseignement et de la securite − DRS)

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国内保安局(Direction de la securite interieure − DSI)

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文書・保安局(Direction de documentation et de securite − DDSE)

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特殊保安庁(Service de la securite speciale − SSS)

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反乱活動対策調整司令部(Commandement de Coordination de la lutte Contre les Activites Subversives − CCLAS)

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特殊介入グループ(Groupe d'Intervention Speciale − GIS):指揮官Abdelkader Khemel大佐

■一般情報

 アルジェリアは、北アフリカにおけるフランス進出の最初の犠牲者となった。1830年6月、フランス軍は、アルジェリアに上陸し、現地軍を撃破し、7月5日、首都アルジェ市を奪取した。第一次世界大戦時、17万3千人のアルジェリア人(その内、2万5千人が戦死)がフランス軍に動員され、12万人が、 防衛作業のためにフランスに送られた。バヌ・シュグラン(1914)、オレセ(アウレセ、1916)等、一連の地区において、部族は、動員に武装抵抗を示した。解放運動の圧力の下、植民地当局は、1919年、譲歩せざるを得なかった。若干のアルジェリア人グループ(ブルジョア、官僚、土地所有者)は、自治機関の選挙権を得た。1926年、在仏アルジェリア人により、民族革命組織「北アフリカの星」が創設され、独立プロパガンダのため1929年に禁止されたが、パリでその活動を非合法に続けた(1936年から、アルジェリアでも)。1931年、アルジェリアにおいて、文化の発展及びアラブ語教育、ムスリム信仰問題への植民地当局の干渉の中止に賛成し、植民地支配者の提灯持ちであるマラブート(宗教的領主)に反対し、アルジェリア国民の独立性に賛成するアルジェリア・ウレム(ムスリムの神学者)協会が生まれた。

 しかしながら、1939〜45年の第二次世界大戦開始と共に、国内で、反応が強まった。1939年9月、アルジェリア共産党とアルジェリア人民党(1937年、「北アフリカの星」の後継として創設 )が禁止された。ナチス・ドイツに対するペタン元帥のフランス政府降伏(1940年6月)後、ドイツ及びイタリアに対する原料及び食料源へのアルジェリアの変化が始まった。

 1942年11月、アルジェリアに、米英部隊が上陸した。チュニスに立て籠もったファシスト軍との戦闘には、アルジェリア人、モロッコ人等のアルジェリアのフランス植民地住民により大部分充足されたフランス軍も、連合国側で参加した。1943年6月、アルジェリア領内で、フランス国家解放委員会が設立された。委員会は、 不名誉なビシーの行政官を権力から罷免した。

 1945年5月に突発した静かな反植民地蜂起は、血に満たされた。1954年11月1日夜、反帝国主義蜂起が始まった。フランス当局は、蜂起の即時鎮圧のために、一連の措置を採った。アルジェリアには、フランス軍の大部隊が輸送され(1955年7月、フランス軍の人数は、40万人にまで達した。)、フランス軍は、平和的住民を残酷に取り扱い、村落を破壊し、反乱軍と隔離するために、住民の大規模追放を実施した。

アルジェリアの外人部隊、1958年 1962年7月1日の国民投票時、アルジェリア人の圧倒的多数は、独立に賛成し、フランス政府により直ちに承認された(アルジェリア分離に反対したフランス軍のテロ組織、OASの抵抗にも拘らず)。最初の共和国政府は、アルジェリアFLN政治局員ビン・ベラが率いた。1965年6月19日、軍は、ビン・ベラを罷免した。権力は、国防相フアリ・ブメディエンを長とする革命会議の手に移った。1966年5月、「アルジェリア憲章により承認されたトリポリ・プログラムの規定」により指導されるとの革命閣議の表明に従い、鉱山と保健会社が国営化され、1967年夏、アメリカの石油トラストの所有権が国家監督下に置かれ、1968年5〜6月、以前国内で活動していたフランス銀行12行の内11行が国営化され、1968年5〜7月、74社の外国産業会社(主として、フランス)が国営化された。

 NLFの会議において、1978年に死亡したブメディエンの後継者、つまり、大統領及び党書記長のポストに、国防相代行シャドリ・ベンジェディドが選出された。1980〜1981年、アルジェリアは、1979年11月にイランにより取られたアメリカ人の人質52人の解放に関する交渉実施を可能にした。1986年、リビアとの関係において肯定的な前進が見られ、1988年、西サハラ問題に関するモロッコとの長い紛争が終わった。それまで、アルジェリアは、この旧スペイン植民地のモロッコ併合に反対するゲリラに支援を提供していた。

 1985年10月、学生・労働者調整委員会により組織された大規模なストライキが行われたカビリアの中心地、チジ・ウズにおいて、騒擾が突発した。1988年10月、軍は、首都での物価上昇に反対する抗議デモに発砲し、500人以上が死亡した。

ベン・ベラ アルジェリア当局は、国際金融機構の援助、国営部門企業及び農業の広範囲な民営化で、経済問題を解決しようとした。しかし、 これらの措置は、住民の貧困層の状態の更なる悪化を引き起こした。

 アルジェリア政府は、複数政党選挙の実施に出ざるを得なかった。増大する社会の不満は、過激なイスラム原理主義者に有利となった。1990年6月、FISは、48州の内32州の地方権力機関の選挙に勝利した。 衝突の波が国を飲み込み、ベンジェディド大統領は、1991年6月、非常事態を導入せざるを得ず、9月末まで続いた。この期間に渡って、55人が死亡し、326人が負傷し、FISの一連の指導者を含む約3千人が逮捕された。

 1991年12月、FISは、議会選挙の一次投票で勝利した。この後、軍司令部は、ベンジェディド大統領を退任させ、一次投票の結果と二次投票の実施を取り消した。アルジェリア暫定指導部は、モハメッド・ブディアフが率いた。FISは、大衆抗議でクーデターに応え、その過程において、約40人が殺害された。1992年2月9日、政府は、非常事態を導入し、3月4日、FISの解散及び禁止について布告した。約7千人のイスラム教徒が逮捕された。当局は、イスラム教徒が優勢な地方権力機関を解散した。しかしながら、6月までに、2,500人以上の被拘束者が、再び釈放された。しかし、FIS指導者、アバッシ・マダニとアリ・ベリハジュは、国家反逆で起訴され、各々禁固12年を言い渡された。当局は、出版物の検閲を厳しくした。

 1992年6月29日、国家元首ブディアフは、暗殺の犠牲となり、元外交官アリ・カフィが彼を交代した。イスラム住民の運動を処理する試みにおいて、カフィは、テロ対策特別法を施行し、警察の権限を拡大し、夜間外出禁止令を導入した。裁判所は、FISの構成員と支持者に死刑の判決を下した(1992年2月から1993年2月までで214人)。しかし、暗殺は続いた。1993年8月、原理主義者は、非妥協的な対峙の支持者、元首相カスビ・メルバフを暗殺した。

 1994年、過激派は、首都とその周辺で活動する武装イスラム・グループと、東部及び西部に拠点を置く武装イスラム運動の2集団に分裂した。1994年1月、ラミン・ゼルアリ将軍が、アルジェリア大統領のポストを占め、イスラム教徒との紛争の政治的解決の模索を約束した。「国民和解」方針の枠内において、当局は、約900人の原理主義者を釈放し、野党RND、社会主義勢力戦線及び文化・民主主義連合に、1994年5月に設置された移行期国民評議会に参加するように招請した。政府は、当局と野党間の交渉実施に対するイスラム教徒の前提条件だったFISの指導者2人を釈放した。ゼルアリの成功は、不安定なものだった。1998年、アルジェリアの軍事・政治指導部において、対立が強まった。軍人は、大統領に譲歩を拒否し、FISとの交渉を中止し、イスラム教徒の決定的撃滅に移るように要求した。1998年秋、ゼルアリは、任期前に退任すると表明した。1999年1月の大統領選挙において、与党陣営(FLN及びRNDの派閥)からの立候補者には、元外務相アブデリアジズ・ブテフリカ がなった。野党は、独自の候補者を立てたが、彼ら全員が、選挙前日、立候補を取り下げ、改竄準備で当局を非難した。野党と敵対組織の抵抗にも拘らず、ブテフリカが選出された。その支持者の運動は、解散された。

 新大統領は、国民和解プロセスを継続することを約束し、2,300人の原理主義者の減刑を規定した大赦に関する法律を議会通過させ、並びに約5千人のイスラム教徒を特赦した。彼は、FISの再組織すら約束した。6月、過激なイスラム救国軍は、戦闘行動の停止について表明し、自主解散した。別の組織、武装イスラム・グループは、「聖戦の強化」でこれに応えた。 そのメンバーは、FIS穏健派指導者ハシャニを暗殺した。その結果、ブテフリカは、軍指導部の圧力に再び譲歩せざるを得ず、1999年12月から、軍は、原理主義者に対するその行動を活発化させた。2000年6月、大統領がテロリズムに対する軍事的勝利について布告したにも拘らず、この宣言は、現実には程遠い。

■特務機関の役割

 80年代、同国の主要特務機関は、中央軍事保安局(La direction centrale de la securite militaire − DCSM)だった。アルジェリア特務機関の最初の改革は、シャドリ・ベンジェディドの下で首相職を占めていたラルビ・ベルヘイア(Larbi Belkheir)が企画した。改革の最初の成果となったのは、大統領への現実的脅威だったカスディ・メルバフ(1993年8月に殺害 )のDCSM長官のポストからの罷免だった。メドジュブ・ラハル・アイアト(Medjdoub Lakhal Ayat)将軍が彼と交代した。彼は、シャドリと同様、元フランス軍将校だった。彼の消極性とシャドリへの個人的献身は、この任命において主要な役割を演じた。彼は、DCSMの複数の機関への分割に同意した。先ず第1に、経済保安庁(Le service de la prevention Economique − PE)が独立機構に分離された。同時に、ベルヘイアは、DCSM解散の構想を打診した。シャドリ・ベンジェディド大統領は、それを承認し、大統領令により、国内外の保安を担当する文書・保安総局(La Delegation Generale a la Documentation et a la Securite − DGDS)と、陸軍保安局(La securite de l'armee − DCSA)の2つの新しい特務機関が創設された。

 後に、DGDSは、DGPS(Direction Generale de la Prevention et Securite)に改称された。

 1985年10月の事件の数ヶ月前(当時、学生・労働者調整委員会により組織された大規模なストライキが行われたカビリアの中心地、チジ・ウズにおいて、騒擾が突発した。)、DGPSには、いかなる経験もない新しい定員が集められた。その結果、特務機関は、国内状況に対する統制を失った。この時、DGPSは、主として、同国の政界全体に関するファイルの作成に従事した。ラハル・アイアト退任後、その長官には、モハメド・ベトチン(Mohamed Betchine)将軍が任命された。これまで、モハメド・ベトチンは、1年以上、陸軍保安局DCSAを指導していた。そこで、彼は、 ベトチンのDGPS異動後に彼に続いて去り、ANTAR作戦センターを指揮したCPMI(Centre principal militaire d’investigation)司令官アブデルハク(Abdelhak)のような人々を自分の周りに集めた。DGCA長官職は、1990年、ラルビの腹心、モハメド・メディネ(Mohamed Mediene)が占めた。

 ラルビは、モハメド・ベトチンをコントロールできなかった以上、特務機関再編を名目に、彼を更迭することに決めた。DGPSとDCSAを単一機構である研究・保安部(Departement du Renseignement et de la Securite − DRS)に統合することが決定された。その部長となったのは、メディエン・モハメド・アリアス・トゥフィク(Mediene Mohamed Alias Toufik)将軍だった。彼は、シャドリの配下において、オランの軍事諜報部で勤務した。

 モハメッド・ブジアフ大統領の下で、もう1つの特務機関、反乱活動対策調整司令部(Commandement de Coordination de la lutte Contre les Activites Subversives − CCLAS)が創設された。権力交代において主要な役割を演じたモハメド・ラマリが、それを指揮した。その外、アンカラを含む対外諜報で勤務し、マリ及びニジェール紛争の解決に参加したその業務における最良のプロの1人、サイディ・フォディル(Saidi Fodil)が、DDSEを指揮した。

 今日、国家保安機構には、内務省構成下の国家憲兵(Gendarmerie Nationale)及び国家保安総局(Directeur-Generale Surete Nationale − DGSN)、並びに自治警備団(Corps de Garde Communale)のような警察機構も含まれている。今日の主要特務機関は、正式には内務省に従属するが、国防省職員を含めて充足されているDRSである。支援機能は、国内保安局(Direction de la securite interieure − DSI)及び文書・保安局(Direction de documentation et de securite − DDSE)が遂行する。特務機関の調整問題、政府の警護は、特殊保安庁(Service de la securite speciale − SSS)が担当する。

 2002年6月、アルジェリアの新内閣が組閣され、内務相のポストは、アルジェリア特務機関の最長老、マグレブ政治のベテラン、64歳のモロッコ出身、ヌリディン・ヤジド・ゼルフニ(「マリガシュ」)が占めた。彼は、1956年、民族解放戦線(FLN)の隊列でその経歴を始め、フランス植民地当局への抵抗に積極的に参加した。1958年、彼は、FLNの諜報機関の構成下に入った。1962年のアルジェリア独立獲得後、当時の軍事保安部(Securite militaire)部長カスディ・ミルバフの委任により、ゼルフニは、この特務機関の改革を上手く処理した。60年代〜70年代、彼は、同国の情報共同体における重要人物の1人となった。彼の活動は、近隣のマグレブ諸国及びアラブ東部、並びにアフリカ大陸の遠隔地に広がった。この際、ゼルフニは、エジプト、キューバ及び西ドイツの特務機関代表と密接な関係を樹立した。1979年に権力を掌握したシャドリ・ベンジェディドは、ゼルフニを危険なライバルと見たため、1982年、彼を遠くの駐メキシコ大使に送り、1987年から1992年まで、彼は、駐米アルジェリア大使館を指揮した。帰国後、ゼルフニは、年金生活に入ったが、7年後、新大統領アブデリアジズ・ブテフリカは、彼を再び勤務に呼んだ。今、ヌリディン・ヤジド・ゼルフニは、前政権の内閣から新内閣に移った3人の大臣の1人となった。内務相のポストでの彼の主任務は、イスラム過激派対策と、マグレブ、近東及び欧州(特にフランス)特務機関との関係の発展である。

■反乱軍

 最も過激な反乱組織、武装イスラム・グループ(GIA)は、西アルジェリアに陣取っている。GIAは、国内いのけるイスラム統治の樹立を獲得しようとしている。10年間の反政府反乱に渡り、両者の武装行動の犠牲者は、12万人に達した。

活動

 1997年8月5日、アルジェリアにおいて、麻薬ビジネス対策に充てられたアフリカ諸国特務機関指導者会議(第3回)が行われた。その業務には、50ヶ国の代表が参加した。専門家の意見によれば、欧州諸国の国境監督の強化は、アフリカにおけるハシシ、ヘロイン、コカイン及び向精神剤を含む麻薬の拡散に使用される多数の積換え基地の出現をもたらした。まず第1に、これは、欧州諸国への麻薬輸送の「確実なルート」と見られているマグレブ諸国に関係しており、モロッコは、従来通り、ハシシの「世界的生産国」と考えられる国のリストに入っている。

 公式情報によれば、アルジェリア領土は、主として、大量の麻薬の中継地に利用されている。アルジェリア特務機関により発見された麻薬の70から75%は、EC諸国、及びアフリカ、先ず第1に大陸東部、並びに近東への拡散を目的とした。

 2001年6月、フランス内務相ダニエル・ワイヤンは、アルジェリア訪問時、アルジェリア特務機関のための技術要員の訓練に関するアルジェリア-フランス協定に署名した。アルジェリア訪問の結果に関するプレスに対する表明において、D.ワイヤンは、両国間関係の改善に向けられた「具体的な行動」への両国の希求を指摘した。ITAR-TASSによれば、署名された協定は、組織犯罪対策及び民間防衛分野におけるアルジェリア人要員の訓練に関係している。アルジェリアのプレスの情報によれば、アルジェリア公式筋との交渉中、テロリズム、組織犯罪、麻薬ビジネス及び武器の不法取引、並びにサイバー犯罪対策に係わる問題が審議された。1999年4月のアブデリアジズ・ブテフリカのアルジェリアの権力掌握時から、これは、既に2回目のフランス内務相のアルジェリア民主人民共和国訪問である。1999年6月、ジャン-ピエール・シェヴェンマンがアルジェリアを訪問した。

 2002年12月、「アル-カイダ」の3人の使者が、北アフリカのイスラム過激派指導者の1人に、ウサマ・ビン・ラディンの個人的連絡を配達したと、Reuterがフランス紙L'Expressionを引用して伝えた。サウジアラビア 出身のビン・ラディンの3人の密使は、シリア及びエジプトを経由して、そこからニジェールに移動し、「アル-カイダ」リーダーの書簡をモフタル・ベリモフタルに手渡した。ベリモフタルは、アルジェリアの過激派「サラフィスト」のニジェール支部を指揮している。「サラフィスト」組織は、米国務省により作成されたテロ集団リストに入っている。アルジェリア特務機関の情報によれば、アルジェリア支部には、350人から380人までが入っており、主として、東部で活動している。ビン・ラディンのベリモフタルへの手紙の内容は、知られて いないか、流布されていない。以前、同紙は、グループ最高指導者ハッサン・ハッタブと会い、「サラフィスト」の構成員を「アル-カイダ」の隊列に徴募するために、 アルジェリアに来たヨルダン人の「アル-カイダ」構成員容疑者をアルジェリア軍が捜索していると伝えた。

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最終更新日:2004/02/29

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