アンゴラの情報機関

■情報共同体

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国家安全保障最高会議(Conselho Superior de Seguranca Nacional)

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対外情報庁(Serviсo de Inteligencia Externa):長官Fernando Garcia Miala准将(2002年12月任命)。彼は、国家安全保障最高会議書記でもある。

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情報庁(Servico de Informacoes):長官Maria de Lourdes Lisboa Filipe

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軍事防諜部(Departamento da Contra Inteligencia Militar):部長Jorge Gomes Macaia

■一般情報

 ポルトガル人は、バコンゴ王国の最盛時、1483年にアンゴラに到着した。支配者は、愛想良く彼らを迎え、キリスト教を自発的に受け入れ、国家統治へのポルトガル人の参加を許した。15世紀末から、ポルトガルの開拓民が国内に浸透を始めた(事実上、完全な征服は、1920年代に終了した。)。1961年、アンゴラ民族解放運動(MPLA) が指揮したルアンダでの蜂起は、武装闘争の開始となった。1974年のポルトガル革命後、MPLA指導部は、ポルトガルの新政権と独立承認に関する条約を締結した。1975年11月11日、アンゴラ人民共和国が宣言された。1976年初め、南アフリカ共和国の民族主義勢力と白人傭兵は、アンゴラ領土への干渉を組織した。共産ブロック諸国側、主としてキューバとソ連からは、軍事機材の大量納入が組織され、キューバは、自国軍を派遣した。侵攻は、両者に大損害を出して停止した。アンゴラには、ソ連側から借款が提供され、経済発展のために物的手段が割り当てられた。1980年から、野党UNITAは、南アフリカ共和国政府の支援の下、親共政権に対してゲリラ戦を開始した。南アフリカ共和国でのアパルトヘイトの終結と共に支援が停止されたにも拘らず、MPLAとUNITA間の内部対立は、和平プロセスの終結を許さなかった。この戦争は、継続しており、同国の経済に大損害を与え、事実上、完全に破壊した。1992年の自由選挙は、交戦両者が満足せず、内戦が継続した。

■特務機関の役割

 70年代、アンゴラの主要特務機関は、内務省の構成下に存在したアンゴラ情報・保安局(Direcсao de Informacao e Seguranca de Angola − DISA)だった。局長Ludy Kissassunda大佐(1975〜79年)の下で、特務機関は、拷問と処刑を使用し始めた。1979年中盤、アウグスチノ・ネト大統領は、DISAの解散と、局高官の一部と一緒に長官の逮捕について発表した。1980年7月、内務省の2省への分割の結果として、国家保安省が創設された。国家保安省は、DISAの機能を、先ず第1に、対スパイ、外国人業務、UNITA対策、国境警備 に限定した。国家保安相には、これまで内務相のポストを占めていたKundi Paihama大佐が任命された。しかしながら、1981年末、Paulo大佐が彼と交代した(後に、Kundi Paihamaは、国防相に任命された。)。

 1986年初め、ドゥシュ・サントゥシュ大統領は、国家保安省を再編した。彼は、Paulo大佐と彼の次官Mendes Antуnio de Castroを省から解任し、1984年中盤から内務次官だったFernando Dias da Piedade dos Santos少佐を国家保安次官に任命した。1986年3月、大統領は、内務相と国家保安相がが入り、Piedade dos Santosが指揮する国家保安省再編委員会を設置した。その結果、多くの国家保安将校が、汚職で起訴されて、逮捕され、他の者は、国家保安省から追放された。1988年3月、委員会は解散された。1988年5月、大統領は、国家保安相にPaihamaを任命した。

 新しい国家保安法は、2002年8月16日に採択された。これに従い、同国特務機関の新しい(現)機構が編成された。

活動

 2002年2月、アンゴラ特務機関の特殊作戦の結果、UNITAの指導者ジョナス・サヴィンビが殺害された。政府代表は、67歳のサヴィンビがモクシコ州での戦闘時に射殺されたと表明した。ジョナス・サヴィンビは、数十年間、黒い大陸における冷戦の象徴の1人だった。1966年から、彼は、与党「親共」体制へのあてつけに、米国側から無制限の支援を享受した。後者側には、周知の通り、ソ連とその同盟国、先ず第1に、1975年にアンゴラに5万人の部隊を派遣したキューバが味方に付いた。米大統領ジェイムス・カーターは、70年代末、ますます拡大するUNITAへのアメリカ製兵器の納入を停止させようとしたが、失敗に終わった。ワシントンは、アンゴラの武装敵対派に対する国連の大規模制裁後、1998年になって初めてサヴィンビの支援を中止した。それにも拘らず、UNITAのボスは、彼の兵士がアンゴラのいくつかの豊かなダイヤ産地を支配していたため、活発な非合法金融・経済活動を行い続けた。しかしながら、2000年初め、その時までに、オヴィンブンドゥ族の多数(サヴィンビが属していた同国最大の民族集団の1つ)が公式政権の正当性を認めたUNITAの「分離派」、UNITA復興運動側に移り始めていた以上、転機が訪れた。

 サヴィンビの死亡の数日後、サヴィンビが外国特務機関の援助で除去されたという情報が現れた。ほぼ30年間、アンゴラ特務機関は、 体制の最も影響力ある敵を綿密に処理しようとしていた。ルアンダの参謀本部がサヴィンビの所在地に関するエージェント情報を入手するや否や、そこに直ちに爆撃機が送られ、地上の全てが灰燼に変わるまで、現場を「アイロンがけ」した。サヴィンビ暗殺の成功におけるアンゴラ特務機関の考えられる助っ人としては、アメリカ人、ポルトガル人及びロシア諜報部が挙げられている。

 2002年4月7日、英国の「インデペンデント」紙は、米国が長年に渡るアンゴラ内戦の開始者となったことを確認する資料を公表した。米国は、その義務にアンゴラ民族解放運動(MPLA)の支援が入っていた5万人のキューバ軍部隊の到着後に、CIAの戦力でアンゴラでの作戦が組織されたと常に主張していた。MPLAは、ポルトガルによるアンゴラ独立承認の数ヶ月前、首都ルアンダを支配下に置いた。最近公表された資料は、米国の作戦がアンゴラにおける最初のキューバ部隊の出現の数週間前に始まったことを証明している。「米国が秘密侵入に関する決定を採択した1975年6〜7月、CIAと政府は、アンゴラにおけるキューバ兵の存在の可能性について考えもしなかった。当期間のCIAの報告書は、キューバ人が 一般に、生起した状況に関係を有していなかったことを示しているが、1975年12月に上院に提出された資料は、歴史を書き換える試み以外の何物でもないと、バルチモアのジョン・ホプキンス大学歴史学教授ピエロ・グレイジェセス(Piero Gleijeses)は表明した。MPLAを権力から追い払う米国の試みは、失敗に終わり、アンゴラは、長年、ワシントン、モスクワ及び北京の利益の紛争地帯となった。

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最終更新日:2052/09/07

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