アンゴラのSu-25

 1988年初め、ソ連とアンゴラ間において、攻撃飛行隊、Su-25K攻撃機×12機と「複座型」Su-25UBK×2機 の同国納入に関する協定が合意された。その時までに、旧ポルトガル植民地では、14年間、内戦が行われていた。同国は、事実上、エドゥアルド・ドゥシュ・サントゥシュの親共体制とジョナス・サヴィンビが率いるUNITA部隊が支配する部分に2分割された。ソビエト製兵器とキューバ軍の助けで、政府は、中央部を支配することができ、UNITA兵は、地方に潜伏し、上手いゲリラ戦を行った。高い草と潅木が茂った緑の多いサバンナのブッシュにおける彼らとの戦いは、偵察、輸送の実施並びに敵の部隊及びキャンプに対する作戦打撃 を保障する空中からの常時支援を要求した。政府軍は、長引いた対峙における決定的転回を得ようとして、特に航空隊に賭けることに決めた。大政策が事態に関係し、地図上に、アフリカのこの地域におけるソビエト連邦の立場 が書き込まれた。駐アンゴラ・ソビエト使節団主任軍事顧問ピョートル・グセフ中将の請負によれば、1989年、戦争の転機が訪れるはずだった。Su-25も、装甲車両及び 対ゲリラ戦において傑出したMi-24ヘリと共に、「勝利の兵器」となるはずだった。

 攻撃機の納入は、長くはかからなかった。トビリシ工場は、当時、1ヶ月に6〜8機ずつ生産し、1988年3月までに、計14機がコンテナ船でノヴォロシスクからルアンダ港に海上輸送された。輸出型の機体(設計局では「商業型」と呼ばれ、ここから名称に「K」の文字が付いた。)は、一連のユニットの熱帯仕様、機上電波電子設備の一式(「パローリ」の代わりに、SRO-2識別システムを有した。)を特徴とし、ミサイル及び爆弾を搭載できなかった。

 攻撃機習熟におけるアンゴラ人への援助のために、ソビエト連邦において、専門家グループが編成された。グループには、カスピ海沿岸のシタル・チャイに駐屯する第80独立攻撃航空連隊、及びベッサラビアのアルツィズの第90独立攻撃航空連隊の飛行士と機体が入った。選定は、妥当なものだった。恐らく、誰も、この部隊の専門家と経験を比較できなかっただろう。彼らは、空軍で初めて、この機体を装備に採用し、その指導的運用を行い、特にその基地では、アフガニスタン民主共和国に滞在した全攻撃機が通過した有名な「アフガン」第378独立攻撃航空連隊が創設された。定期交替がまだ動作し続けていたとき、後に血で購われた経験は、世界の別の場所で求められた。

 アフリカに派遣されたグループの構成には、飛行隊長に任命された副飛行隊長ラフィス・グメロフ少佐、航法士レオニード・チェルノフ少佐及び編隊長ウラジーミル・コルネフ大尉の3人の飛行士を含む14人が選抜された。グループの技術要員は、飛行隊技官ヴィクトル・エシク少佐が指揮した。彼の部下の各人は、連邦において、規定業務グループ長以上の職務を占め、機体及びエンジン、兵器、電波電子及び航空設備等、しかるべきシステムを熟知していた。グループ全員は、来るべきアフリカの「自活」でなくてはならない基地からの隔離における独自業務の貴重な経験を与えた「アフガン学校」を経験した。アフガンの「屠殺場」にいた彼らは、暑く乾燥した気候 を有する国での勤務への禁忌を有さず、それについては、身上書にしかるべきチェックが存在した。アンゴラにおいて、彼らは、しかるべき階級の現地将校の下で専門家職務を占めることになっていた。職務数は、「各攻撃機に対して、アンゴラ人は、1人ずつの専門家を注文した」というジョークのように、機体数と正確に一致していた。ポルトガル語を話せる者は、両連隊だけではなく、空軍全体でも見つけることはできなかった。

 1988年11月10日、グループは、兵員を監督するモスクワの「ソ連国防省第10総局の管轄下」に入った。この方式は、2年間、国際条約により、外国人軍事専門家が敵対者に援助を提供しつつ、交戦国に滞在する権利を有さなかったため、出張地の名称、その「カバー」及び住所となった。グループは、派遣直前に義務的な10日間の課程を受け、新しい勤務地について手短に話され、複雑な国際情勢及び外国諜報部の陰謀について想起させられた。この災難からの免疫の外、飛行士と技師は、より実用的なコレラ、Q熱リケッチャ、腸チフス の接種を受けた。

 11月26日、アンゴラのTAAG社の古びた「ボーイング-707」が、グループをルアンダに送り届けた。都市の一角全体を占めたソビエト軍事施設団の基地において、将校達は、作戦情況と現地特性に習熟しつつ、訓練を継続した。そこで、彼らには、現地軍服につきものの属性であるフランス製のまだら模様の熱帯「迷彩服」と長靴という新しい制服が交付された。

 戦争は、警備塔と使節団の周りの警備BTR、そして、時折通りで見え隠れする装甲車を除いては感じられなかった。市内の砂浜は、群集に満ち、通常の生活が行われ、豪勢な地ビールを常に飲むことができた。しかしながら、首都の向こう側では、長引いた紛争による国の疲弊が隠れていた。アンゴラ軍人は、血気盛んなポスターのような兵士には程遠く、明るい未来のために戦闘に赴こうとは全くしなかった。兵士は、村落で狩り立てつつ、苦労して軍に集められ、前線から戻った顧問は、「牛追い」となって、アンゴラ兵を文字通り戦闘に追い立てざるを得なかったと語った。空港で会った現地ヘリ飛行士は、悪くないロシア語で「彼は、射撃される場所に飛ぶほど馬鹿ではない」と説明して、Mi-24で前線への貨物を積んだ縦隊に随行することを拒否した。主として、インターナショナルのスローガンを血で購ったキューバ人が戦わざるを得なかった。

 若干の慰めは、植民地当局からアンゴラに相続された悪くない飛行場ネットワークだった(根拠もなくもなく、古老は、ポルトガル人の下で、国の全てが整備されたと主張した!)。広くい人影のまばらな空間は、良くも悪くもなかった。ゲリラの待ち伏せは、飛行場の建設の必要性をもたらし、その助けで、ブッシュに散在する村落の連絡と補給が維持された。空輸に費やすことは、路上で常時損害を受けるよりも有益だった。アンゴラ人のAn-26及び「ハーキュリーズ」、ソビエトの軍事輸送航空群のAn-12及びIl-76による遠隔の守備隊及び基地への空中連絡は、全ての旅客輸送が遂行し、食料、燃料及び弾薬 を運搬した。UNITAゲリラの「スティンガー」出現は、飛行を危険なものとした。1988年夏、ルエナ飛行場からの離陸の際、セルゲイ・メリインコフ少佐のIl-76(機体番号79768)がミサイルにより撃墜された。飛行士は、エンジンが炎上したにも拘らず、機体を着陸させることができた。クイト・カナヴァルでのアンゴラのC-130は、余りついていなかった。損傷した機体は、滑走路から柔らかい土壌に飛び出し、真っ二つになったが、幸運なことに、爆発しなかった。

 アンゴラ人の前線航空隊の損害は、大部分が戦闘ではなく、操縦ミスと機体の悪準備によるものだった。グメロフのグループの到着直前、送迎機で、「複座型」MiG-21で殉職した現地戦闘飛行隊長顧問リパトフ中佐 が祖国に送られた。ルバンゴ飛行場上空において、彼は、アンゴラの飛行隊長と共に、低空での飛行術を処理していたとき、一連の「ロール」遂行の際、恐らく、鳥の衝突のため、機体のエンジンが「切り落とされた」。飛行士を救助するには、時間と高度が足りなかった。

 空軍主力は、前線から離れた海辺の安全な基地に集中し、作戦の航空支援の際、前進飛行場が使用された。ルアンダ空港の外、人が居住する沿岸には、ロビトゥ及びナミベ航空基地が存在し、建設された滑走路は、奥地のルバンゴ、ミノンゲ、ウアンボ、ルエナ、クイト・カナヴァレ市に存在した。ルアンダ南方の岩壁には、キューバ人により、自分のMiG-23用にコトゥンベラ滑走路が建設された。Su-25の駐屯地としては、ナミビア国境から170kmの港湾都市ナミベ(現地住民自身は、それを以前のポルトガル名であるモサメディシュと呼び続けた。)が選定された。市の安全は、戦地からの離隔だけではなく、外れから直接始まる無人の白熱した砂漠、つまり、敵が強行突破しそうもない海賊話で有名な象牙海岸によっても保障されていた。ナミベには、既にMiG-21MFとSu-22を装備する第26戦闘爆撃航空連隊が駐屯していた。攻撃機は、その3つ目の飛行隊を構成することになっていた。そこには、南部から援護を実施したキューバのMiG-23ML飛行隊が位置していた。ポルトガル人により建設された飛行場は、悪くないコンクリートを有していたが、その照明及び無線技術手段の装備は、「植民地」水準にあり、最良を期待できなかった。

 グループの生活は、苦労して整備された。ソビエト使節団の補給員は、現地の富を完全に無視して、連邦から運搬されたバーミセリの入った缶詰以上のものを何も提案できなかった。活路は、「足元」(正確に言えば、水中)で見つかり、釣りを組織し、大洋に豊富に生息する魚とあらゆる海産物で食卓のゆうに3分の2を保障した。現地市場で養われた。最初の年は、このように過ぎた。後に、最終的に、全ての上級機関を通して、ナミベの食堂で通常の「糧食給与」を推進することができた。

 グループ隊員への月給は、飛行隊長レベルで650ドルの「特別手当」、飛行隊技師は580ドル、残りの専門家は450から500ドル(当時の公式レートにより、1米ドルが79コペイカだったことを忘れるべきではない。)と、祖国基準で全く通常のものが指定された。しかしながら、将校の目に止まらない本部に入った文書が感情を若干傷つけた。アンゴラ側が各人の仕事に対して10倍以上の4,500ドルまでを支払うことが分かった。そこには、夢にも及ばぬ格差があり、手に入った南アフリカ共和国の傭兵がアンゴラの経験を分かち合った「ソルジャー・オブ・フォーチューン」誌が「火に油」を注いだ。敵は言うまでもなく、軍事専門家の仕事を同額で評価していることが分かった。南アフリカ人には、同じ4,500ドルが支払われたが、稼ぎは完全にその場で受け取った。

 初日から、アンゴラ人指揮官の下で専門家として勤務する具体的な義務の外、ソビエト・グループの将校が、習慣的な技術業務に従事し、その上、教育活動 を習得せざるを得ないことが明らかになった。「爆撃飛行隊」兵員の訓練は、全くの名ばかりだった。技手は、キエフ及びクラスノダール航空学校で教育を受けたにも拘らず、最良の場合、飛行機のカバーを外し、燃料を補給することができたが、タンクの蓋が閉め忘れられていないという確信はなかった。アジア及びアフリカ諸国のための「輸出」パイロットを専門としたクラスノダール学校飛行班の卒業生は、強引に飛行士と呼ぶことができた。彼らは、離陸と視界内の飛行場周回のみを遂行できたが、これにも多くの者には問題があった。経路上、グループによる自律飛行、戦闘使用については、全く話にならなかった。学校卒業後、アンゴラ人は、丸1年間、空中に上がっていなかった。

 「兵卒と未教育者」からは、完全な専門家を作ること、つまり、現地革命家の目論見 を自分の血で購わざるを得ず、何の希望もなかったアフガンの経験を繰り返すことになっていた。連邦にも、変革の時が訪れた。ありとあらゆる「進歩的体制」の支援に莫大な資金をますます支出しつつ、指導部は、軍人が戦闘行動に参加することを明確に禁じた(この命令がしばしば名目上のものだったにも拘らず、他人の戦争に派遣されたソビエト将校は、従来通り、戦闘に向かい、異国の地で戦死せざるを得なかった。)。キューバ人は、共通意見として、優れた関係が形成された「誠実かつ信頼できる仲間」であり、同盟国に仕事を教える熱意に公然たる懐疑を持って接した。アンゴラ軍人と関係を持ったのは初めてではない彼らは、この点に関して、からかった。「おい、力を入れるな・・・」。

 ナミベ基地には、「俺のようにやれ」という単純かつ視覚的方法を使用して、アンゴラ技術要員の再教育課程が展開された。手を通して、講義と要約の助けよりも早く知識が行き渡った。アンゴラ人は、ロシア語がかなりでき、1989年2月までに、攻撃機の準備及び簡単な修理に関する基本作業を習熟した。このときまでに、各種遅滞後、遂にSu-25が組み立てられた。組立と飛行は、トビリシ及びウラン・ウデ企業の工場班が行った。その後、アンゴラ人の操縦慣れの回復に従事したグメロフの飛行士の前に現れた。2機の「複座」の搬出飛行後、操縦、航法訓練、グループ飛行及び戦闘使用の処理に移った。離陸訓練の際、彼らが仕込んだ現地「専門家」の熟練度に対して幻想を抱いていなかったソビエト人教官は、エンジンの点検、装置のスイッチ又は給油すらも、動作を必ず監督しつつ、機体の整備を見続けた。ほとんど常に、アンゴラ人は、油圧系統とオイルタンクに給油することを忘れ、 空中で「肉片」と共に爆発するはずである作業後ハッチの閉鎖を忘れ、ブロックの接合の際に電気回路をもつれさせ、飛行場給油ユニットと給油装置に「鎖で縛られた」機体を 起動することもあった、

 パイロット教育の非常に平凡な水準にも拘らず、1989年8月までに、2個編隊が独立業務に準備された。教育は、翌年の秋まで続き、アンゴラ人が特に戦闘を急がなかった以上なおさらである。現地飛行士の低い技量は、自らを知らしめた。3機の攻撃機が、不運なパイロットの犠牲となった。この際、驚くべきことに、全ての事故が着陸ですらなく(小さな車軸と滑走制動の際の横滑り及び傾斜の傾向を有するSu-25のモードは、かなり複雑で、熟練を要する。)、機体は、離陸で直接破損した。1990年2月、1人の飛行士が、滑走の際、離陸速度よりも小さな速度で車輪を格納しようとした。当然、前傾姿勢となり、攻撃機は、機首をつんのめり、滑走路の端まで コンクリート上に機関砲弾を撒き散らし、火花の中で地面に突っ込み、爆発した。3ヵ月後、他の2人の「エース」が、2機で離陸し、辛うじて地面から離れ、旋回し、翼と翼がぶつかった。両機は衝突し、空中分解して、飛行場の端に墜落した。全ての場合、飛行士はついており、カタパルト脱出することができた。1機は、爆発数秒前に地上から直接、衝突した2人は、低空で機体を離れ、1人は、 直後に打撃を受け、もう1機は、既に翼を失い、脇に倒された。

 全体として、1990年10月年までに、Su-25飛行隊は、1,500時間飛行した。戦闘使用プログラムは、飛行隊長ジャイメ大尉も含めて、1個編隊のみが完全に習熟した。爆撃と射撃は、古タイヤと路上から集められた焼失した自動車から成る標的が設備された飛行場の近くの砂漠の中の市北方7kmの演習場で処理された。

 このとき、キューバ人は、「武器による同志」を支援する熱意の無益さを確信して、戦闘参加を限定しつつ、既に部隊を撤収させていた。ルアンダの将軍には、その軍の教育のための時間と資金が無駄に費やされた訳ではないことを証明することが迫っていた。空軍の強化のために、1990年春、アンゴラは、ソ連から14機の新しいSu-22M4を受領した。これらは、ナミベにおいて、ルバンゴ飛行場に移転したMiG-21MFと交替し、その後、連隊は、完全に戦闘爆撃機となった。ソビエト側からの飛行隊長には、ニコライ・ヴォロシャノフスキー中佐が配置され、後に、アレクセイ・シェフツォフが彼と交代した。この時までにシャヴェシュ大尉が指揮した充足済みの連隊は、アンゴラ空軍で最も戦闘能力があり、撤退したキューバ人飛行士と数的に交替し得る著しい戦力だった。連隊は、1990年夏(通常、大規模行動は、南半球の暑さが少し落ち、人員と機材が多少とも我慢できる程度に戦える夏季に活発化した。)の計画的作戦実施で行動することが決まった。UNITAは、この時、中央の州及び首都近隣 で一連の襲撃を実行した。そこには、Su-25編隊も移動することが決定され、政府軍の攻勢保障のための敵の陣地、その集団及び基地の爆撃による撃滅を任務として付与した。Su-22M4は、MiG-21と共に、東部戦線の作戦を支援するために、ミノンゲ前進飛行場から活動することになっていた。

 移動したSu-25編隊は、ルアンダ近郊の滑走路に配備された。予備部品及び弾薬を含むその業務に必要なもの全ては、必要に応じて、ナミベから「ハーキュリーズ」及びAn-26で輸送された。攻撃機の戦闘業務に関するその後の評価は、意気を阻喪させるものだった。精密打撃及び戦場での部隊の直接支援を目的とした機体は、爆弾を運んで、投下するだけの「馬車」として、最も平凡な方法で使用された。この際、アンゴラ人パイロットは、高射火力に当たらないように、急降下を避けつつ、安全な高度5〜7km以上を慎重に維持した。爆撃は、破片・フガス爆弾OFAB-100-120、OFAB-250-270及び子弾頭と有するカセット爆弾RBK-500で行われた。路上の輸送車両、UNITAのキャンプ及びゲリラが占領した村落に対する打撃の際、時折、UB-32-57ブロックのロケット弾が使用された。「前線爆撃機」としてのSu-25の使用は、攻撃航空隊の使用に関する指針にすら矛盾し、戦闘状況下でこれほど必要な 「カラス」の機動性、精度及び打撃力は、使用されなかった。アンゴラ人の目には、Su-25は、瞬く間に爆弾を投下して、姿を消せる高速のミグにすら劣っていた以上なおさらである。戦闘有効性については、既に語るまでもなく、外面的効果と、Su-25が超音速の戦友と並んで「醜い小鴨」と 見られた飛行地帯で「宙返り」する能力が大きく評価された。アフガニスタンで「カラス」の業務成果を見たロシア人将校は、機体と自分の労苦に対する正当な侮辱の感情を抱いたが、「Su-25には、このパントマイムではなく、戦争が必要だ」と総括できただけだった。数ヶ月間で25ソーティー(アフガン基準で、普通の一日の負荷)を遂行して、アンゴラ人は、戦闘業務を拒否し、攻撃機をルアンダ空港に帰し、そこに放置もした。

 10月、ソビエト専門家グループにおいて、飛行士と技術要員の大部分の交替が行われたが、その業務は、ますます少なくなっていった。ルアンダ上空でのSu-25の試運転の失敗後、アンゴラ人は、事実上、戦闘行動へのその投入を中止した。パイロットは、余り飛ばなくなり、それでなくても高くない技量を失った。12月から、ソ連グループの段階的削減が始まった。1991年3月までに、飛行隊における飛行業務は全く縮小され、機体は放置された。その時までに、キューバ人は、アンゴラから去った。ドゥシュ・サントゥシュ大統領は、軍事的方法で敵対派を処理する状態になく、間もなく、「マルクス主義の幻滅と非難」について表明した。このことは、その敵を満足させず、戦争は、かなり前から政治的内幕を失い、部族間の権力闘争に変わった。Su-25は、もはや参加することはなく、空中に上がることはなく、アンゴラ支援のためにソ連が無償で費やした41億ドルに関する言及として「柱に繋がれた」。

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最終更新日:2004/03/15

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