チャド空軍

 アフリカは、昔から、常なる戦争で「有名」である。「黒い大陸」にとって、部族間の殺し合いは、全く普通で、伝統的なことであり、直接の参加者を除き、誰も関心がないことだった。しかしながら、80年代、いくつかの超大国の注意は、地域諸国の共通した侘しい背景においてですら、最貧国の1つであるチャドでの血生臭い事件に引き付けられた。

 チャドは、仏領赤道アフリカの他の国と同様、1960年8月11日に独立を得た。植民地当局は、フランソワ・トンバリバエの現地政府に全権を委譲した。偶然かどうかは分からないが、同政府の全閣僚は、キリスト教徒だった。

  ここで、チャド領土は、キリスト教で、豊かな農民が定住する南部と、ムスリムで貧しい遊牧アラブ人及びベルベル人が定住する北部の2大地域に明確に分離されると言うべきである。南部人の比較的裕福さは、極貧の遊牧民の羨望を引き起こしている。その外、状況は、宗教対立によっても深刻化している。

 このようにして、中央政府は、フランスの武力によってのみ維持された(外人部隊が「秩序維持」のためにここに存在した。)。

 しかしながら、1964年、フランスは、国際社会の圧力の下、自国軍を撤収し、その将校要員がほぼ南部人のみで代表されたチャド軍がその場所を占めた。武力でムスリムの不満を鎮圧する試みは、抵抗の成長に直面した。1966年、中央政府に宣戦布告した「チャド解放戦線」運動が生まれた。この段階において、反乱軍は、アルジェリアの支援を得た。政府軍の問題は重要でなくなり、2年後、フランス軍部隊がチャドに戻り、友好体制を支援した。1968年8月、ジブチからチャドのフォート・ラミ飛行場に、Armee d'AirのЕАА(Escadron d'Appui Aerien)1/21飛行隊の編成からA-1H「スカイレーダー」攻撃機×4機が飛来した。

 1969年3月1日、これらの機体から、EAA 1/22飛行隊が編成された。フォート・ラミ飛行場から行動しつつ、「スカイレーダー」が、反乱軍に対して打撃を加えた。7月から、フランス軍の行動は、「アルエット」及び「ブルッサード」を装備するGroupe de Marche du Tchad 59航空群、並びにアルジェリア戦争で自らを良く発揮したH-34ヘリを有するDetachment Permanent d'Helicopteres 02/67ヘリ部隊が支援した。フランス人飛行士は、反乱軍にはまだいかなる高射兵器もなかったため、完全に安全を実感していた。

 ほぼ同時に、1969年9月、リビアにおいて、ムアマル・カダフィが権力を掌握し、「信仰とイデオロギーの兄弟」 を大いなる熱意をもって支援すると同時に、独自の目的(問題は、リビアが隣国への領土要求を有していたことにある。)も追求した。 成果の1つとなったのは、反乱軍中の分裂だった。イスラム過激派は、別々の組織に分かれ、リビアを指向した共産主義者は、グオコニ・ウエデヤの指導の下、チャド民族解放戦線を編成した。1973年、 チャドの内紛を利用して、ウエデヤの同意を取り付け、リビアは、ウランと石油の豊かなアウザ地帯を併合した。この根拠となったのは、トリポリタニア(当時、イタリアの植民地)の構成下へのアウザ領土の移管に関する1935年の不履行だった伊仏条約だった。

 1975年10月、軍事クーデターの結果、チャドのキリスト教政府は 崩壊し、フェリックス・ムアルマ将軍のムスリム体制がその場所を占めた。フランス人は、チャドから全部隊を撤収した。しかし、かなり早期に、新政権は、1974年4月、旧宗主国と接触を確立した。チャドは、 独自の戦闘航空隊を整備した。これは、やはり、チャド空軍の打撃構成要素を構成した6機のフランスの「スカイレーダー」だった。勿論、自前の飛行士はおらず、フランス人傭兵が攻撃機で飛行した。 その上、その飛行図上の目標すらも、従来のまま、グオカニ・ウエデヤ(フロリナト第1人民軍)とヒッセン・ハブレ(フロリナト第2北部軍)の反乱軍だった。

 フロリナトの両翼が中央政府 、相互間、アフメド・アシルのイスラム社会行動戦線との、ヒッセンは更にリビア人との戦いを止めることを考えもしなかったとき、アフリカにとって「通常の」状況が生起した。間もなく、ハブレは、自軍と共にムアルム側に移ったが、ウエデヤの反乱軍は、首都ヌジャメナに前進を続けた。反乱軍の行動の成功は、再びフランス人に干渉を強いた。

 体制を救うために、フランスは、1978年4月、2,500人の外人部隊をチャドに投入し、8機の「ジャギュア」戦闘爆撃機 がヌジャメナ飛行場に移動した。機体は、反乱軍に対するフランスの攻勢支援のために活発に使用された。この活動は、5月31日に携帯式高射ミサイル複合体「ストレラ」により撃墜された1機の喪失で終わった。間もなく、更に1機の「ジャギュア」が戦闘飛行中に行方不明となった。リビア側からの反乱軍援助にも拘らず、フランス軍の干渉は、彼らを首都から撃退することができた。

 同年12月、フランス側からのあらゆる努力にも拘らず、ハブレとムアルムの脆い同盟は崩壊した。ヌジャメナ市街では、北部の武装アラブ人とチャド軍の黒人キリスト教徒間で激戦が展開された。大混乱を利用して、カダフィの更なる進出を阻止するために、ナイジェリア軍部隊が西部の沿国境地区に入った。

 翌年の2月になって初めて、チャド軍司令官アブド・エリ・カデル・カモグ大佐は、戦闘を停止させ、全ての現地「権威者」を交渉の席に座らせることができた。数ヶ月の交渉の結果となったのは、1979年11月11日のグオカニ・ウエデヤのチャド大統領宣言だった。副大統領にはアブド・エリ・カデル・カモグ大佐が、国防相には反乱軍2番目の指導者ヒッセン・ハブレがなった。この際、全武装部隊は解散されず、自分のリーダーの指揮下に留まった。達成された合意の履行の保証人には、ナイジェリア軍がなった。しかし、周知の通り、 瓶の中の蜘蛛は共存できず、間もなく、元反乱軍集団間の戦闘が再開した。

 フランスは、問題を解決する自らの無能力を見て、手を引き、紛争地帯から部隊を撤収した。10月、北部軍は、首都に対する大規模攻勢を開始すると同時に、市には、リビアの爆弾が投下された。

 つまり、1980年10月9日、数機のTu-22が、ウエデヤの要請により、ヌジャメナ近隣のヒッセ-ナ・ハブレの部隊陣地に対して打撃を加えた。これには、リビアのTu-22と「ミラージュ」の他の施設に対する攻撃も引き続いた。空襲には、リビア空軍で勤務していた外国人軍事顧問が参加した。飛行要員不足のため、北朝鮮人、パキスタン人、シリア人、東ドイツ人すらもリビア機で飛行したことを指摘する必要がある。西側の情報によれば、チャド領土には、ソビエト人教官も存在した。この事実は、ロシア連邦軍参謀本部の公式情報によれば、「チャドには、1976〜78年の間、25人のソ連国防省代表が滞在していた」ため、実際に起こったことだが、彼らの戦闘行動への直接参加は証明されていない。

 ヌジャメナを巡る戦闘におけるウエデヤと汎アフリカ軍団(戦車及び砲兵を伴う4,000人)の部隊の直接火力支援は、Mi-24戦闘ヘリ と攻撃機に改良された教育・戦闘機が行った。間もなく、撃破されたヒッセン・ハブレの部隊は、スーダン国境に敗走した。沿国境地帯での戦闘時、リビアのSF-260は、国際規定を考慮せずに、ハブレ軍の基地となったスーダンの都市と村落に対して打撃を加えた。スーダン人は、2機の同機がコロウス市空襲時に撃墜され、この際、2人のパイロットが死亡したと表明した。

 エジプト及びスーダンに対して予想される脅威を懸念したアメリカ人は、2機のE-ЗA AWACS機をカイロ飛行場に投入し、この地域の状況を追跡した。

 同時に、合衆国自体では、スキャンダルが起こった。ジャーナリストが、元CIAエージェント(「元エージェント」なのは、興味深い。)が、リビア空軍のために傭兵飛行士の募集を組織した ことを「掘り出した」のである。アメリカ人傭兵は、CH-47「チヌーク」及びС-130輸送機でのみ飛行したにも拘らず、この全ては、チャドで行われた。その外、その後の調査過程において、この実業家がカダフィ体制への兵器納入に対するアメリカの禁輸をどうにか迂回して、枢機の「ハーキュリーズ」をリビア人に売却することができた ことが発見された。

 12月16日、チャドにおいて、休戦が署名された。フランス側からの強い政治的圧力の下、リビア人は、チャドから自軍を撤収し、対立両者の陣地間には、ナイジェリアのエジギ少将指揮下の「アフリカ間安全保障軍」部隊が配置された。その編成には、2千人のナイジェリア兵、同数のザイール兵及び800人のセネガル兵が含まれた。空中から、この部隊は、やはり傭兵が操縦した5機のザイールのMB.326及び「ターボ・ポーター」により支援された。構想によれば、軍団は、内戦に終止符を打つはずだったが、これは起こらなかった。両者は、戦闘員の動員と自分の装備の充足のために小休止を利用した。1年間、ハブレは、フランスとアラブ数カ国の支援の下、新しい軍を編成した。

 このようにして、1年間の休戦後、1981年末、ハッセン・ハブレの部隊は、スーダン国境から攻勢を首尾良く開始した。戦争のこの段階でのチャドの「スカイレーダー」の役割は、全く明らかではない。 ハブレに飛行機を引き渡すか又はヌジャメナを勝手に離れることができたフランス人傭兵が操縦していたため、これらがヌジャメナに駐機していたのか、ハブレに対して使用されたのかは分からない。1982年、飛行状態にあった4機が戦闘編成から外され、フランスの収集家に売却されたことだけがかなり知られている。

 1982年6月、ハブレ軍は、敵を北方遠くに追いやり、ヌジャメナを奪取し、反乱軍のリーダーは、自らをチャド大統領と宣言した。翌年初め、グオカニ・ウエデヤの軍は、リビアの直接支援の下、チャド北部地域から反攻を開始した。ファダ、ファヤ・ラルジョ、ウンム・シャルバ及びアベ・シェ居住区を巡って、激戦が展開された。リビア航空隊も、攻勢に積極的に参加し、特にMi-24(正確に言えば、その輸出型のMi-25)が特に際立った。

 しかしながら、リビア航空隊の使用規模は、敵の防空部隊(形態式対空ミサイルと火器のみを装備した。)の抵抗よりはむしろ、戦闘行動地帯におけるジェット機用飛行場の欠如 により制限された。ファヤ・ラルジョ強化地区を巡る激戦時ですら、チャドでは、約40機のリビア軍用機しか行動しなかった。これらの条件下において、リビア北部から離陸して、問題なくチャド領土のいかなる地点にも到達したTu-22戦略爆撃機 が再び役に立った。軍事行動地域の離隔と道路網のほぼ完全な欠如の条件下において、リビア軍とその同盟軍の後方保障 の重責を担った輸送航空隊が、当戦争で重要な役割を演じた。

 1983年8月6日、リビア人は、チャドで最初のジェット機を失った。同日、16機Su-22から成るグループによる政府軍陣地の空襲時、携帯式高射ミサイル複合体「ストレラ」のミサイル発射により、1機が撃墜された。報道によれば、少佐階級の飛行士がカタパルト脱出し、捕虜となった。

 北部での戦闘中に負傷したチャド兵士は、傭兵が操縦する数機のDC-4及びС-54輸送機で首都に後送された。しかし、リビア人の絶対的制空権のため、この危険な飛行は、夜間にだけ実行された。

 ヒッセナ・ハブレのチャド軍が 今回敗戦しつつあるのを見て、フランスは、再び自国の同盟者を助けに急ぎ、「マンタ」作戦を開始した。作戦の枠内において、1983年8月21日、ヌジャメナに、EC 3/11飛行隊の「ジャギュア」×6機、EC 1/5の「ミラージュ」迎撃機×4機、ERV93のC-135F×2機及び海軍航空隊の「アトランチク」×2機が到着した。同時に、ザイール軍がハブレの援助に来た。 そのような「インターナショナル」のおかげで、リビア兵の圧力を押し止め、奪取された領土の一部奪還すらできた。到着した「ジャギュア」は、当初、戦闘行動に参加せず、チャド上空で警戒飛行のみを実行した。これらは、陸軍航空隊の数機の「ガゼル」と3機のL-19が支援した。

 いつものように、アメリカ人も、部外者ではなかった。彼らは、「空中の橋」を組織し、巨大なC-141で、フランス人、並びに政府軍のために武器及び軍用品をヌジャメナに輸送し始めた。

 これを背景に、1984年5月、突然、チャドとナイジェリア間に戦争が勃発し、その原因となったのは、チャド湖南東部に位置する数ヶ所の島だった。ナイジェリア軍は、奇襲中にチャドの守備隊を撃滅し、約300人の兵士を殺害した。これに対する報復として、フランス人傭兵は、ナイジェリア兵を皆殺しにし、彼らを島に留まらせなかった。激怒したナイジェリアの将軍達は、大規模軍事作戦の開始に関する命令を下達した。その準備中、ナイジェリア空軍のMiG-21は、チャドの村落の爆撃を開始した。しかしながら、戦争は、開戦と同様に突然終わった。7月、停戦協定が署名され、諸島については再び忘れられた。

 1984年1月24日、反乱軍の縦隊攻撃の際、23mm高射機関砲の射撃により、「ジャギュア」が撃墜された(別の情報によれば、 携帯式高射ミサイル複合体「ストレラ」が撃墜した。)。4月16日、チャドの地で、もう1機のフランス攻撃機が撃墜されたが、これは、事故の結果墜落した公算が大きい。

 1986年10月、カダフィは、チャドにおける自軍の員数を4千人まで増強した。2ヵ月後、リビア軍とウエデヤ軍は、16度線 上の「レッド・ライン」(両軍の接触地区)を横断し、首都に前進を開始した。ハブレは、今回、フランス人に助けを求めた。パリは、長くは待たせず、参謀本部は、「エペルヴィエ」(「鷹」)作戦を立案した。旧宗主国の命令に従い、「ジャギュア」は、中央アフリカの基地から離陸し、 リビアの陣地に対して強力な爆撃を加え、攻撃者の熱を冷ました。空襲の主要標的となったのは、リビア遠征軍団の機体の多数が集中していたウアジ・ドゥム大飛行場だった。

 しかしながら、この「警告」は、2ヶ月間しかもたず、12月、リビア軍は、ソビエト軍事顧問の参加の下、その年3度目の全戦線に対する攻勢を開始した。 更に今回、ナパーム、並びに切り札であるTu-22(若干の西側筋の主張によれば、化学兵器すら使用された。)が使われた。このような事態の展開に驚いたフランス人は、アメリカの「ギャラクシー」輸送機で、対空ミサイル「ホーク」数個班を首都に投入した。全戦役に渡って初めて、政府軍は、真剣な抵抗を示し、バルバイ市を巡る戦闘だけで、リビア人は、400人と戦車20両を失った。間もなく、 攻撃者は撃退された。多くの場合、これを可能にしたのは、自分の同調者にパラシュートで武器及び弾薬を投下したフランス人の活発な援助であった。

 1987年1月2日、ハブレ軍は、逆襲に転じ、敵からファダ市を奪還した。戦闘において、ほぼ700人のリビア兵が戦死し、1月3日、この地区でMiG-25が撃墜された。

 その間、米仏は、ハブレへの援助を強化し、フランス空軍の「ジャギュア」は、定期的偵察飛行を開始し、ウアジ・ドゥムに対する新たな打撃を準備した。1月7日、10機の「ジャギュア」が、ヌジャメナから離陸し、対レーダー・ミサイル「マルテル」を使用して、航空基地地区のリビアのレーダーに対して打撃を加えた。作戦の成果については伝えられなかったが、この空襲が「エペルヴィエ」作戦中における「ジャギュア」の最後の行為となったことが知られている。

 同時に、フランスは、チャドにおける自国の軍事プレゼンスを強化し、追加1,000人の兵士を投入し、地域における航空集団を2個飛行隊にまで増強した。今や、そこには、30機の「ジャギュア」及び「ミラージュ」F-1C戦闘機が入った。偵察には、「ミラージュ-3」と「アトランチク」が使用された。遠征軍の行動は、10機のC-135P及びC-160輸送機が保障した。チャドのヌジャメナ、ガボンのリベルヴィル、並びに中央アフリカ共和国のブアル及びバンギ飛行場が、その基地となった。

 ファダ奪取後、ヌジャメナの通りを捕虜が歩かされ、中央広場では、ソビエト製及びチェコ製のリビアの兵器の戦利品の展示会が催された。3月8日、ハブレの部隊は、ウアジ・ドゥムに対して攻勢を展開し、激戦後、3月22日、航空基地を奪取した。戦利品として、Mi-25×3機、L-39×11機及びSF.260×2機が彼らの手に渡った。激怒したカダフィは、ウアジ・ドゥムの爆撃を命令した。数機のTu-22が、飛行場を爆撃したが、 成果は、微々たるものだった。

 8月8日、チャド軍は、リビアが併合したアウザ地帯の飛行場を奪取し、何よりも、Mi-25が地上で焼失した。リビア軍は、 航空隊を広く使用しつつ、アウザを奪還する粘り強い試みに着手した。チャドの公式情報によれば、主として、戦利品の携帯式高射ミサイル複合体「ストレラ」と高射ミサイル複合体「クーブ」を装備した同国の防空部隊は、8月17日から23日まで、8月17日に撃墜されたTu-22及びMi-25を含めて、9機のリビア機を戦果に記録した。

 9月5日、ハブレの部隊は、リビア領内に存在するマーテン・エス・サッラ航空基地を破壊した。この際、チャドの高射砲兵は、ミグ3機とMi-25×1機を撃墜し、その搭乗員は死亡した。更に22機の飛行機とヘリが地上で破壊された。

 2日後、カダフィ大佐は、仕返しに、チャドの首都爆撃命令を下達した。9月7日朝、フランスのレーダーは、ナイジェリア上空を飛行し、オペレーターの照会に回答しない未確認機を発見した。ヌジャメナ飛行場からは、2機の「ミラージュ」が迎撃に上がった。

 未確認機がチャド領空に侵入したなっかたため、飛行士は、敵を攻撃できなかった。機体がナイジェリア、チャド及びカメルーンの国境であるチャド湖に接近したとき、ヌジャメナの防空部隊は、戦闘準備態勢に入った。0659、1機が対空ミサイル「ホーク」により撃破された。その後の調査の結果、これがリビア空軍のTu-22だったことが明らかになった。

 チャド北部とリビア南部での戦闘におけるリビア軍の撃破後間もなく、両者は、 休戦協定に署名したが、全般的に、個別的な小競り合いが起こった。

 西側筋は、チャド戦争におけるリビア航空隊の損害をTu-22×2機、MiG-23×2機、MiG-25×1機、An-26×2機、SF-260×17機、L-39×15機及びMi-25×11機と挙げた。別の研究家は、Mi-25×3機及びL-39×11機を含めて、撃破28機及び鹵獲23機の数字を挙げている。それにも拘らず、 これらのデータを最終的に真に取ることはできない。例えば、西側で公表されたリビア人の損害リスト に1機も入っていない少なくとも1機のSu-22の喪失について、追加で知られている。

 チャドの平和な「小休止」は、長くは保持されなかった。1989年4月、2人の軍高級将校、ハッサン・ディヤモスとイドリス・デビは、内務相ブラヒム・マハモト・イトノの支援の下、反政府陰謀を組織したが、摘発された。デビだけが逃亡に成功し、残りの陰謀参加者は処刑された。デビは、国外で 激しい活動を展開し、チャド救国運動を創設した。1990年秋、この運動の兵士達は、攻勢を開始し、首都を迅速に奪取した。12月1日、ヒッセン・ハブレは、カメルーンに政治的庇護を要請した。

 デビは、新政府を組閣し、自身は、当然のことながら、大統領となった。この際、彼は、自国政策の親リビア指向を宣言した。このようにして、カダフィは、最終的に、流血の戦争中に成功しなかったチャドを自分の影響地帯に変えることを達成した。

 それにも拘らず、ハブレは、撃破に甘んじなかった。1992年、現大統領に対して元大統領により教唆された2回の軍事反乱が相次いだ。しかし、両方とも鎮圧され、 航空隊がここで少なからない役割を演じた。

 2000年現在の状態によれば、チャド空軍の打撃構成要素は、「アルエット」IIIヘリ×2機、武装PC-7×2機及びリビア人から得られたSF.260×2機により代表された。輸送航空隊は、カダフィにより譲渡された数機のAn-26とС-130「ハーキュリーズ」×1機(1990年、ポルトガルで2機の同機が購入されたが、2機目は、間もなく予備部品に分解された。)を誇る。

 実際、国内外の緊張状況は、軍の緊急な近代化を要求した。2001年、ウクライナにおいて、2機のMi-17と同数のMi-24Vが安値で購入された。誰がこれらの機体を操縦しているかについては、正確には分からない・・・。

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最終更新日:2004/03/15

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