陸軍は、常に、軍の最大かつ最も重要な部門である。陸軍は、1989年、推定320,000人の戦力を有した。この内、約180,000は、召集兵だった。1967年6月の戦争前、陸軍は、その兵員を4管区司令部に分割した。1967年の敗戦後、陸軍は、第2軍と第3軍の2個野戦軍に再編され、その2つ共、東部に駐屯した。残りの部隊のほとんどは、ナイル・デルタ地域、上ナイル周辺、及びリビア国境沿いに駐屯した。これら部隊は、8軍管区に組織された。コマンド及び空挺部隊は、中央統制の下、カイロ近隣に駐屯したが、必要時、野戦軍の1つに迅速に配属された。一般に少将の階級の管区司令官は、国内保安事項に関して、知事その他の文民当局と連絡を維持した。
1988年の陸軍の主要戦術編成は、4個機甲師団(各々、2個機甲旅団及び1個機械化旅団を有する。)、6個機械化歩兵師団(各々、2個機械化旅団及び1個機甲旅団を有する。)、及び2個歩兵師団(各々、2個歩兵旅団及び1個機械化旅団を有する。)を含むものと信じられた。独立旅団は、4個歩兵旅団、3個機械化旅団、1個機甲旅団、2個空中機動旅団、1個空挺旅団、及び共和国親衛機構旅団を含んだ。これら旅団は、2個重迫撃砲旅団、14個砲兵旅団、2個地対艦ミサイル(SSM)連隊、及び7個コマンド群により増強された。各々は、約1,000人から成った。
部隊の配置は秘密だったが、外国の軍事観察者は、エジプトの5個師団がスエズ運河西部の駐屯地に存在し、半個師団がシナイに存在すると見積もった。第2軍は、地中海からイスマイリア南方の地点までの地域を担当した。第3軍は、当地点から紅海までを担当した。政府は、一部はイスラエルの潜在的侵略から運河及び首都を防護する期待と、一部は2個軍のための駐屯施設がこれら地域に長期間位置していたことから、このように軍を配備した。西部管区司令官は、リビアに向かい合う西部の沿岸町村と西部砂漠(リビア砂漠としても知られる。)に駐屯するコマンド、砲兵、及び防空部隊により増強された軍(恐らく、総計で増強師団に匹敵する。)を統制した。
エジプト軍は、1973年の十月戦争以降、西側を指向し始めたにも拘らず、今なお、その装備に大量のソビエト製装備を有した。1989年現在、12個師団の内推定5個師団と一部の他の部隊は、アメリカ製装備と戦闘序列に転換を行っていた。主力戦車の保有は、1,600両以上のソビエト製T-54、T-55、及びT-62型と、785両のアメリカ製M60A3から成った。これら旧式のソビエト製戦車の一部は、105mm砲、ディーゼル・エンジン、火器統制システム、及び外部装甲で西側式に改修されていた。装甲兵員輸送車(APC)は、1,000両のアメリカ製M-113A2、1,000両以上のソビエト製BTR-50及びOT-62、並びにドイツ連邦共和国(西ドイツ)の設計に基づきエジプトで製作された約200両のFahdから成った。陸軍はまた、ソビエト連邦及びスペイン製の700両以上の歩兵戦闘車も有した。エジプトはまた、戦車及びAPCの車体に搭載することにより、砲兵及びロケットの機動力を増加させるプログラムにも着手した。
陸軍は、旧式のソビエト製、ソビエト製から派生したエジプト製ロケット・システム、及びフランス製のMilanミサイル、エジプトでライセンス生産された英国製Swingfireミサイル、並びに米国製TOW(チューブ発射、光学照準、有線誘導)ミサイル
を含む各種対戦車ロケット及びミサイルを保有した。陸軍は、TOWとSwingfiresを自国製ジープに搭載した。TOWをFahd APCに追加する計画は、今なお試作段階にあった。
1980年代中、軍は、兵員数を削減しつつ、近代的兵器の導入により、その防衛システムの質及び有効性を改善するためのプログラムを実行した。陸軍は、他の軍種よりも多くの人員を減らすことが期待された。しかしながら、陸軍は、利用できる職位において既に過度な将校の需要を更に減少させるため、その下士官・兵を削減する気持ちはほとんどなかった。その上、陸軍での勤務は、国家の失業状況の軽減を助け、兵士に職業訓練を提供した。それにも拘らず、計画は、陸軍の25%程度の戦力削減を要求した。
イスラエルとの各戦争中、陸軍は、指揮関係と通信に弱点を示した。ソビエトの軍事ドクトリンの影響の下、上級指揮官は、旅団長及び大隊長
にまで作戦上の柔軟性を拡大するつもりはなかった。計画立案における硬直性は、もう1つの欠点だった。指揮官は、戦況に緩慢と反応した。システムは、前線将校中のイニシアチブを奨励しなかった。1973年の十月戦争に先立ち、陸軍は、将校を戦闘に準備するために、多くの改善を行った。更に、エジプトのスエズ運河渡河に先立つ複合的計画立案と、当初の攻撃の実行は、高水準の軍事能力を示した。しかしながら、後に、イスラエルが逆襲を開始したとき、エジプトの高級司令部は、
躊躇と混乱をもって反応し、エジプトの断固たる抵抗にも拘らず、イスラエルが主導権を得ることを可能にした。
陸軍における意思決定は、1980年代中、高度に中央集権化され続けた。旅団級以下の将校は、滅多に戦術的決定を行わず、作戦修正前に、上級機関の承認を必要とした。陸軍の上級将校は、この状況に気づき、下級司令部のイニシアチブを奨励する段階を踏み始めた。
良く訓練された下士官の不足は、ますます複雑化する兵器システムを導入する陸軍にとって、深刻な問題となった。観察者は、1986年、入隊時、全召集兵の75%が無学であるため、ハイテク兵器の使用方法を学ぶとき、深刻な障害に直面したと見積もった。最も基礎的な技術技量を獲得した兵士ですら、民間部門で高給職位を探して、可能な限り早く軍を離れたがっていた。合衆国標準まで、陸軍は、その下士官(NCO)を十分使用しておらず、その多くは、長期間勤務していたが、特別な才能を示さなかった兵士だった。少佐級の将校は、しばしば、西側陸軍でNCOが行う訓練を実施した。良く訓練されたNCOを保持する動きにおいて、陸軍は、1980年代、職業制下士官に高給、快適さ、及び改善された居住条件を提供することを始めた。
約12,000人の軽武装準軍隊である辺境軍団は、ほとんどがベドウィン人で、国境監視、一般平和維持、麻薬阻止、及び密輸阻止を担当した。1980年代後半、陸軍は、遠隔センサー、夜間暗視眼鏡、通信車両、及び高速艇をこの部隊に装備した。
エジプトのソビエト製装備よりも数世代新しいイラク装備が
西側製に酷く劣った1991年の湾岸戦争は、旧式装備を改良するよりは、交換により大きな努力を費やさなければならないことをエジプト軍に確信させた。CFE条約
と冷戦終結に続く武器削減は、手段を提供した。T-55 MBTを改良する話は、それをスクラップにすることに退き、代わりに、米陸軍の余剰M-60が調達され、M-60A3標準に転換された。約700両のM-60は、1992年中盤
までに調達されていたにも拘らず、改良は、予定が遅れているようであり、軍の装備の過半数は、今なお、東側製であった。M1A1に追随できる交換APCは、主要優先度だった。1992年10月、新しい米製軍事装備の主要調達が1997以降に延期されると発表された。
ロンドン所在のSunday
Times紙は、2001年8月12日、エジプトが非武装のシナイ半島への第3軍の派遣を検討していると伝えた。エジプトの上級安全保障筋を引用した同紙は、イスラエルがパレスチナ領内に移動すれば、エジプト政府が軍を派遣すると伝えた。ムバラク大統領は、パレスチナ人を助けるための圧力の増加を受けていると、同紙は語った。第3軍の演習は、2001年9月、カイロ東部で行われた。イスラエルの安全保障筋は、エジプトの軍事干渉
の可能性が検討されていると語った。彼らは、エジプトのシナイ侵攻が1979年のイスラエルとの平和条約違反とみなされるとTimesに語った。
2001年9月初め、エジプト第3野戦軍は、スエズ運河近隣で大演習を行った。演習は、イスラエルからの攻撃を撃退するために、軍を訓練することを意図した。
■部隊
部隊名 | 所在地 |
作戦本部 | カイロ |
第2野戦軍本部 | イスマイリア |
第3野戦軍本部 | スエズ |
西部軍管区本部 | シディ・ブライミ |
中央軍管区本部 | カイロ |
北部軍管区本部 | アレクサンドリア |
南部軍管区本部 | アッシウト |
4個機甲師団(各々、2個機甲旅団、1個機械化旅団、及び1個砲兵旅団から成る。) | |
8個機械化歩兵師団(各々、1個機甲旅団、2個機械化旅団、及び1個砲兵旅団から成る。) | |
1個共和国親衛機甲旅団 | |
4個独立機甲旅団 | |
2個独立歩兵旅団 | |
1個空中機動旅団 | |
1個空挺旅団 | |
6個コマンド群 | |
15個独立砲兵旅団 | |
2個重迫撃砲旅団 | |
6個ATGW旅団 | |
2個SSM旅団 |
最終更新日:2004/03/15
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