インドの情報機関

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■首相

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合同情報委員会(Joint Intelligence Committee − JIC)

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研究・分析局(Research and Analysis Wing − RAW)

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情報局(Intelligence Bureau − IB)

■国防省

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統合暗号局

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陸軍:
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軍事情報局

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国防・保安団

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特殊国境局

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国家保安警備隊(National Security Guards

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特殊保安局

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空軍:
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空軍情報局

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海軍:
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海軍情報局

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沿岸警備隊

■国土・内務省

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中央捜査局

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国内保安部

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中央予備警察部隊(Central Reserve Police Force − CRPF)

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特殊防護グループ(Special Protection Group − SPG)

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中央産業保安部隊(Central Industrial Security Force

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国境保安部隊(Border Security Force − BSF)

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国土警備隊(Home Guards

 インドの主敵は、今に至るまでパキスタンであるため、インドの特務機関は、何よりも、同国に対して活動している。

■歴史

 インド諜報部の歴史は、植民地期に始まった。最初の現実的な諜報情報収集網は、1892〜93年に英領インドに現れた。それを指導したのは、チャールズ・マクレガー(Charles McGregor)少将だった。彼は、インド軍の補給部長と同時に、情報部長の職を占めた。マクレガーの機構の出現は、この地域に明らかに現されたロシアの関心により引き起こされた。英国人は、サンクト・ペテルブルグに、東インド会社、インド国境等で働く多数のエージェントが合流する特殊諜報局が存在することを正確に知っていた。

 20世紀初め、英領インド特務機関の主敵は、ロシアであり続けた。1917年の革命後、インドの情報局は、州の刑事捜索部と共に、コミンテルン、「モスクワ、欧州諸国及びアフガニスタンの陰謀」と関連又は組織された破壊活動に関する情報の入手を義務付けられた。この方面において局がどの程度上手く行動したかについては、1920年にコミンテルン第2回会議でインドの革命層を代表したインドの革命家マナベンドラ・ナトフ・ロヤ(ブハッタチャリア)の事例で判断することができる。

 インド特務機関の直接の前身は、旧犯罪情報部(CID)の代わりに1920年11月に創設された情報局だった。1933年、最終的に第二次世界大戦を導いた世界的政治危機を実感して、局の機能には、国外諜報情報の収集が含められた。1947年、独立獲得後、サンジーヴィ・ピライ(Sanjeevi Pillai)が、インド最初の長官に任命された。1949年、ピライは、特務機関の再編を組織したが、1962年の中印紛争時にその非効率性が再び露呈した。諜報部の業務の欠陥は、1965年の印パ紛争の結果により、陸軍参謀長ショドフリ将軍によっても指摘された。しかしながら、独立の対外諜報機関創設の必要性の理解は、インディラ・ガンジーの権力掌握後、1968年になって初めて現れた。研究・分析局(Research and Analysis Wing又はRAW)の名称を得た新機関の長官には、情報局次官だったR.N.カオが任命された。

 インド政府の合同情報委員会は、情報局、研究・分析局、軍事、海軍及び空軍情報局により提供される諜報情報の分析に従事する。委員会の構成下には、独自の事務局が存在する。

 国家安全保障会議は、1990年8月24日に設置され、議長は首相で、議員は内務相、外務相、国防相及び財務相である。設立以来、会議は、1990年10月5日に1回だけ召集された。

 情報局Intelligence Bureau − IB)は、国内保安を担当する。局の最近の大きな行為の1つとなったのは、2000年4月の共和国北西部のエージェント網を指導していたパキスタン特務機関支局員の逮捕だった。デリーで流布されている情報によれば、パキスタン省庁間情報局ISI将校ムニル・アフメドは、 西部のラジャスタン州領域で拘束された。非合法状態にありつつ、彼は、インド軍、その装備及び配置に関する諜報情報の収集をそこで指導していた。これについての補足情報は、ジョドフプール市のインド空軍基地の文民勤務員の1人だったパキスタンのスパイの共犯者から得られた。

ニューデリーのRAW庁舎 内閣官房の研究・分析局RAWは、インド最強の特務機関と考えられている。局は、対外諜報機関である。RAWは、パキスタンその他のインドの隣接国に対する偽情報措置、スパイ行為及びサボタージュの実施を担当する。RAWの指導は、首相により直接実施され、局の機構、編成、予算及び定員は、国家秘密であり、議会すらからも秘匿されている。

 RAWは、1968年に設立された。その創設の際、インド当局は、パキスタンがシーク教テロリストに武器を納入し、ゲリラの防護及び訓練を保障しているとの確信に基づいた。一方、パキスタンは、局がセライキ(Seraiki)運動を支援し、財政援助をそれに提供し、1993年11〜12月にセライキ国際会議を組織した パンジャブ州でのサボタージュの援助で、RAWを非難した。パキスタンの情報によれば、RAWは、シンド(Sindh)及びパンジャブ(Punjab)州に集中する 各種宗派及び民族集団の反体制派を含めて、パキスタン国内にエージェント及び破壊分子の広範囲なネットワークを有している。マスコミの情報によれば、1983〜1993年の間、パキスタン領内に、約3万5千人のRAWのエージェントが送り込まれ、その内、1万2千人が シンドで、1万人がパンジャブで、8千人が北西国境州で、5千人がバロシスタンで活動している。RAWの管轄下には、40ヶ所のテロリストの訓練キャンプも存在する。

 アフガン戦争時、RAWは、インドの同盟国であるソビエト連邦に対するアフガン解放運動の支援を牽制するために、パキスタンでのテロ行為の実施を担当した。

 アフガン戦争でのソ連の敗退は、パキスタンでのRAWの破壊活動の終結とならなかった。マスコミの情報によれば、インドは、ソビエト軍撤退後既に、カディアン(東パンジャブ)に訓練キャンプを組織し、非ムスリム信仰のパキスタン人がテロ行為実施のために訓練された。パキスタン首相ナワズ・シャリフ(Nawaz Sharif)は、パキスタンでのテロリズムの現在の成長への資金提供で局を非難し、パキスタン国防相は、毎年数千人の命を奪っているスンニー派とシーア派間の暴力の主導でRAWを非難した。

その準備がインド及びアフガニスタンの特務機関のものとされるパキスタンでのテロ行為

年月日 概要
1995年12月21日 ペシャワールのサッダル(Saddar)地帯の自動車中の爆弾が爆発。37人が死亡し、50人が負傷。
1996年4月14日 ショカト・ハヌム(Shaukat Khanum)病院で爆発。7人が死亡し、34人が負傷。
1996年4月28日 バイ・フェル(Bhai Pheru)のラホール−サヒワル(Lahore-Sahiwal)経路を進むバスが爆発。44人が死亡し、30人が負傷。
1996年5月8日 シェイフプラ(Sheikhupura)病院近隣でバスが爆発。9人が死亡し、29人が負傷。
1996年6月10日 グジュランワラ(Gujranwala)で爆発。3人が死亡し、11人が負傷。
1996年6月10日 ハリアン(Kharian)近隣の路上のバス中の爆弾が爆発。2人が死亡し、10人が負傷。
1996年6月27日 ファイザバード(Faizabad)のファイズル(Madrassah Faizul Islam)メドレセに対して爆発。5人が死亡し、50人が負傷。
1996年7月8日 ファイザバード(Faizabad)の鉄道駅で爆弾が爆発。3人が死亡し、20人が負傷。
1999年1月 ラホールでのパキスタンのシャリフ首相に対する破壊工作。

 RAWは、カシミールにおけるイスラム戦闘員のパキスタン軍人による訓練にも、しかるべく報復した。RAWは、テロ行為でカシミール民族運動を非難するために、1971年 、ラホールでのインド機のハイジャックを準備したという。RAWはまた、バングラデシュにおける活動の長い歴史も融資、インド人少数派を支援している。RAWはまた、スリランカの武装集団の訓練にも資金提供していた。1981年から、RAWと情報局は、スリランカでの行動のために、30ヶ所以上の訓練基地から成るネットワークを組織した。

 RAWは、タミル解放の虎も支援していたが、実際、後に、支援は停止された。ラジブ・ガンジーも、虎と良好な関係を維持しようとしていた。実際、インド情報共同体は、虎を評価しきれず、虎によるラジブ・ガンジーの暗殺は、インド・マスコミの情報によれば、スリランカへのインド軍の平和維持軍の進入に対する 恐怖で説明されている。

 インド特務機関の主要国外スパイ網は、駐ワシントン・インド大使館により調整される。アメリカのマスコミの情報によれば、大使館は、全種類の情報へのアクセスを有し、アメリカの遠距離通信ケーブルからも情報を入手している。1996年、インド外交官は、米国の政治立候補者への違法資金提供に関するスキャンダルに陥った。アメリカの法律によれば、外国市民は、連邦選挙に資金提供することはできない。バルチモア裁判所は、生粋の米市民ラリト・ガドヒア(Lalit H. Gadhia)に禁固3ヶ月を言い渡した。ガドヒアは、インド大使館とアメリカの立法者に献金している各種米印組織間の密使として働いていたことが暴露された。インド大使館により、約20人の下院立候補者に約4万6千ドルが手渡された。

 2000年7月27日、パキスタン当局は、Nawa-i-Waqt紙を通して、RAWとモサドが パキスタンの主要宗教及び軍事活動家、ジャーナリスト、裁判官、弁護士及び官僚に対するテロ行為の準備のために4つの「新しい代理店」を創設したと表明した。その外、鉄道、病院等に爆弾を仕掛ける計画について報道された。パキスタン特務機関はまた、インド訪問を許可された20〜30歳のパキスタン人を徴募するRAWの計画についても非難した。

 2001年1月1日、12月31日に定年退職したRAW長官A.Sドゥラト(A.S.Dulat)は、首相特殊部署(OSD)の幹部に任命された。彼は、1966年から局で働いていたヴィクラム・スード(Vikram Sood)と交代した。ドゥラトは、1965年からRAWを指揮し、カシミール問題の専門家である。

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最終更新日:2004/04/09

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