イランの情報機関
 

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情報省(ヴェザラーチェ・エッテラート):1979年まで、この機能は保安省(SAVAK)が遂行していた。

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統合特殊作戦委員会

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情報・保安省(VEVAK)

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イスラム革命防衛隊(コドス・パスダラン・イ・エンゲラブ・イ・イスラミ)

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軍事情報部

 イラン特務機関の近代史の基点は、CIA及びモサドの積極的参加の下、情報・保安機構(SAVAK)が設立された1957年秋から始まる。フランス(イラン諜報部の創設者チモール・バフティヤルは、ここの軍事アカデミーを卒業した。)と英国の特務機関も、一定の影響を及ぼした。元駐テヘラン・ソ連駐在武官セルゲイ・クラフマロフGRU少将の言葉によれば、「SAVAKは、長年、イランの全国民を警備下に置いていた。最高公務員ですら、その言及の下で身震いした」。この特務機関の主任務は、国内の敵対派対策にあった。クラフマロフの情報によれば、この組織の牢獄には、「その存在の22年間に渡って、380,000人以上が虐殺された」。

 当時、SAVAKの主敵は、エジプト、他のアラブ諸国及びその同盟国ソ連の特務機関だった。この際、地域の宗教少数派であるシーア派、キリスト教徒及びユダヤ教徒に頼った。それと共に、SAVAK第3代長官ネマトラ・ナセリは、1968年、特務機関ルートによるソ連との接触確立、特にソビエト連邦からの「防諜機材」の調達に関心を現した。

 その巨大な政治弾圧機構(職員15,000人)にも拘らず、SAVAKは、1979年初めのシャー体制の転覆を防止できなかった。1979年から1983年まで駐イランKGB支局を指揮したレオニード・シェバルシンの回顧録によれば、イラン革命は、ここでのソビエト諜報部の立場を著しく破壊した。ソビエトの非合法諜報員業務に関係を有していたKGB第1総局「S」局職員ウラジーミル・クジチキンの英国亡命の結果、ほぼ3年後に常軌を逸する打撃が与えられた。その後、1983年2月、ホメイニ体制は、軍将校中に多数の支持者を有し、ソビエト諜報部(シリア特務機関も)と協力していたイラン人民党(トゥデ)に対して大弾圧を始めた。

 イスラム共和国の新しい特務機関の時代がやって来た。SAVAKの主要後継者となったのは、イラン情報・国家保安機構だった。機構は、SAVAKと、60年代にイラク南部、レバノン、エジプト及び米国で生まれた(カイロの保安機関とパレスチナ解放機構の協力の下)イランのシーア派の地下機構の2つの主要要素に基づき編成された。主として、新体制は、SAVAKの諜報機構出身の将校を勤務に誘致した。何よりも、イラク方面及びペルシャ湾岸諸国について働いていた者が評価された。

 その結果、新しい特務機関は、その前任者と同様、近東、中央アジア、アフリカ、南米及び北米 のシーア派共同体を利用しようとしている。アヤトラ体制の新規導入となったのは、イスラム革命の輸出である。

 これは、イラク特務機関の能力を顕著に拡大させ、スンニー派原理主義者に対する自国の影響力を拡大することを可能にした。

 SAVAKと同様、ホメイニ体制の保安機構は、先ず第1に、敵対活動の阻止に従事した。国外において、新しい諜報機関は、イラク(現地シーア派及びクルド人敵対派、特に「ヒズブ・アル-ダヤ・アル-イスラミーア」組織、1982年からは「イラク・イスラム革命最高会議」のおかげで)、レバノン(「アマル」組織、1982年からは「ヒズボラ」のおかげで)、サウジアラビア(1979年末に王国打倒のためにメッカを奪取しようと試みたシーア派敵対派のおかげで )、並びに米国(アメリカ・イスラム学生協会に団結したイラン人学生30,000人のおかげで)及びフランスにおいて確固たる立場を有している。

■革命の盾

 ある情報によれば、新機構の初代長官ホセイン・ファルドゥスト(過去、SAVAKの指導部に入り、70年代初めから独立機構「特殊情報局」を指揮した。)は、KGBとの協力の疑いで更迭され、1985年12月、「ソビエトのエージェント」ととして投獄された。同時に、諜報機構において、大規模粛清が行われ、機関自体は、1984年、事実上、諜報・保安省の機能を遂行する情報省に改編された。初代情報相モハマッド・モハマッジ・レイシャフリ(1984〜1989年)の下、諜報部は、ほぼ最終的にその現在の形態を獲得し、並びに国外でのその業務の基本方面が決定された(当時、イラクとアフガニスタンに特別の注意が払われた。)。 これに基づき、彼の後任アリ・ ファッラヒヤン(1989〜1997年)は、省を世界最強の特務機関の1つに変えることができた。彼の指導の下、イラン諜報部は、アラブ・イスラエル及びボスニア紛争に対する梃子、アルジェリアのイスラム運動に対する大きな影響力を獲得し、レバノン及びパキスタンにおける自国のプレゼンスを拡大させ、並びにドイツ、タジキスタン、アルメニア及びラテン・アメリカ諸国 で地位を固めた。ファッラヒヤンは、国際イスラム組織だけではなく、「パレスチナ人民解放戦線総司令部」及びギリシアの「11月17日」のような多くの左翼過激派に対しても監督を確立した。

 ファッラヒヤンの後任、ドッリ・ナジャファバジは、全く短期間しか情報相のポストを保てなかった。彼の相在任時、アヤトラ体制を批判した70人のジャーナリスト及び政治活動家における省への非難と関連して、スキャンダルが発生した。長期の調査後、ナジャファバジは、そのような非難の妥当性を認め、1999年2月初め、辞表を提出した。この際、全責任は、ファッラヒヤンの前保安・情報問題担当次官サイド・エマミに被せられ、彼は、同年6月、「自殺」の結果獄中で死亡した。

 現情報相アリ・ユネシは、4代目の特務機関指導者である。ユネシは、初代情報・保安相M.M.レイシャフリの密使、イラン・イスラム共和国指導部の保守陣営の支持者と考えられている。ユネシの次官のポストは、M.ハタミ大統領の腹心、アリ・ラビーが占めている。

 情報・保安相として、ユネシは、CIS諸国、特にロシア、アゼルバイジャン及びアルメニアの特務機関との協力発展に特別の注意を払っている。2000年9月、アフガン方面及びスンニー派過激派対策 における協力について、当時のロシア連邦安全保障会議書記セルゲイ・イワノフと交渉を行い、2001年9月、アゼルバイジャン国家保安相アバソフと交渉を行った。

 現在、省は、世界40ヶ国以上で活動している。その定員は、4,000人(エージェント30,000人以上)である。アリ・ユネシの指導の下、イラン諜報部は、今年初めから、イラクに対する米国の作戦への集中的準備を行っている。地域、特に、シリア特務機関(10月のユネシのダマスカス訪問)、クルド愛国同盟(PUK)ジャラル・タラバーニ(彼とユネシ間の秘密交渉は、11月初め、省内でクルド方面を監督するカザミ・カジミの参加の下で行われた。)との関係、並びにイラクの諜報機構との接触(クサイ・フセインとユネシの秘密会見は、昨年7月、イランの沿国境の都市カスル-シリンで行われた。)が強化されている。

 同時に、情報相は、イラク南部及び北部 の非合法エージェント及び破壊工作・テロ・ネットワーク(ムハメッド・バキル・アル-ハキムのイラク・イスラム革命最高会議に基づく。)の創設を個人的に監督している。同国におけるアメリカのプレゼンスがテヘランの脅威となるか、バグダッドの将来の親西側指導者が反イラン政策を行おうとする場合、これを活用することが計画されている。

■革命防衛隊

 事実上、イランの全ての行政及び戦力機構が、その活動を情報相と調整している。特にこれは、イスラム革命防衛隊に関係している。防衛隊は、軍の平衡力におけるホメイニ体制の主要な支えとして、1979年5月に創設された。イスラム革命防衛隊の編成下には、陸軍(370,000人以上)、海軍(20,000人)及び空軍(約20,000人)が含まれる。イスラム革命防衛隊総司令部の枠内において、対外情報委員会と外国作戦委員会が機能している。革命防衛隊の特務機構は、レバノン及びスーダンにおいて、最も堅固な立場を有している。その外、彼らは、ペルシャ湾岸諸国、パレスチナ、ドイツ、フランス、カナダ、ブラジル、パラグアイパキスタン及びフィリピン に、枝分かれしたエージェント・破壊工作網を有している。

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最終更新日:2004/03/15

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