アリ・アクバル・ナテグ・ヌリ

 1979年まで、聖職者階級の反シャー運動参加者の1人だったが、イスラム革命後の初期、内政の舞台に顕著な影響力を有さなかった。テロ行為の結果兄が死亡した後、第1期議会代議員に選出された。1981年12月から、内務相のポストを占め、M.ムサビ首相との相違のため、辞表を提出せざるを得なかった。第3期議会で「右派」会派を率い、第4期及び第5期メジリスの議長に選出された。

 1996年の議会選挙中、創作従事者党の百人以上の代表がメジリス代議員となり、強力な会派を形成したにも拘らず、N.ヌリは、著しい影響力を享受し続けた。彼は、1997年の大統領選挙中、勝利の最も現実的な候補者として見られた。いわゆる「同志連合」に団結したN.ヌリの支持者は、1996年末、未来の内閣組閣のために協議を開始した。選挙への立候補拒否に関するM.ムサヴィの表明と、彼の代わりのM.ハタミの出馬は、当初、統治聖職者階級右翼代表の自分の候補者の勝利への確信強化を促進した。同期間、N.ヌリの最も積極的な支持者の1人、モハマッド・ジャヴァド・ラリジャニは、英国を訪問し、同国外務省で中近東地域を担当するニック・ブラウン(現在、N.ブラウンは、駐テヘラン英国大使である。)と秘密交渉を行った。M.D.ラリジャニは、M.ハタミと彼の盟友を、かつて駐イラン米大使館の占拠に積極的に参加した徹底した極左運動代表と評した。当会見に関する情報は、イランのプレスに公表され、N.ヌリの立場に著しい打撃を与えた。同期間、彼は、モスクワを訪問し、公式交渉中、来るべき選挙での自分の勝利の確信を誇示しようとした。

 投票過程において、N.ヌリは、700万の選挙民が支持し、このことは、彼が代表する政治潮流がかなり広い社会基盤を有していることを証明した。しかしながら、これは、2千万票以上を得たM.ハタミに対する勝利には不十分だった。過去数年間のイラン情勢の発展は、厳格にイデオロギー上に妥当な方針の支持者の人気の更なる低下と、改革実施に賛成する政治活動家の影響力の成長をもたらした。

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最終更新日:2004/03/15

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