マシャッラ(マフムド)・シャムソリヴァエジン

 内政舞台における各種集団代表間の相互関係の展開問題を報道するイランの最も有名なジャーナリストの1人。

 M.シャムソリヴァエジンは、M.ハタミがその編集長だった80年代前半、「ケイハン」(「宇宙」)紙で活動を始めた。1992年の現大統領の文化・イスラム理解相のポストからの退任後、M.シャムソリヴァエジンと、レザ・テフラニ及びモルテズ・ロフセファットを含む彼の一連の同僚は、「ケイハン」の新指導部により解雇された。M.シャムソリヴァエジンは、 一時レバノンに滞在し、そこで起こった事件を報道した。イラン帰国後、彼は、月刊誌「キーアン」(「生活」)の発行を主導した。そこでは、イラン・イスラム共和国の国家体制の基盤の理論的根拠への公的アプローチと常に完全に一致しているわけではない分析記事が掲載された。現在有名な反体制派アブドルカリム・ソルシュは、「キーアン」の記事の著者の1人だった。

 H.ハタミの大統領選挙勝利後、M.シャムソリヴァエジンは、ハミドレザ・ジャライプル(元政治問題担当クルディスタン州副知事)とモハマッド・サズガラのような改革的見解で知られるジャーナリストと共に、出版社「ジャムゼ-イエ・ルズ」を創設し、「ジャムゼ」(「社会」)紙を発行し始めた。社会・政治生活の事後の自由化の敵側からの非難の強化とH.ハタミ政府への圧力の条件下において、「ジャムゼ」紙は閉鎖された。改革運動リーダーとインタリゲンチヤ中で人気が成長し続けていたM.シャムソリヴァエジンは、新しい新聞「トゥス」を設立した。新聞は、半年未満しか発行されず、プレス問題に関する裁判所の決定により閉鎖された。この際、M.シャムソリヴァエジン、E.ナバッヴィ、H.ジャライプル及びM.サズガラを含む全編集員は、様々な期間の禁錮を言い渡された。釈放後、M.サズガラは、「ジャムゼ-イエ・ルズ」社の役員会議から外れた。 彼の地位は、元イラン・イスラム共和国外務省職員かつ駐東京国営テレビ会社代表部長モハマッド・バゲル・ワリベイクが占めた。その外、同社の指導部には、「ジャムゼ-イエ・ルズ」 の唯一の出版機関でもあった「ネシャト」(「歓喜」)紙の出版ライセンスを有していたラチフ・サファリが入った。1997〜2000年の改革派新聞の数の成長にも拘らず、M.ハタミの政治方針の敵は、当出版社の活動を特に懸念した。これらと関連して、「ネシャト」紙も閉鎖され、その編集長は、刑事訴追を受けた。「ジャムゼ-イエ・ルズ」 の最後の出版となったのは、「アスル-エ・アザデガン」 (「解放時代」)紙だった。長期間イランで唯一の非国営出版物であった「アブラル」紙の編集長だったカフル・ガルシャスビが、それを率いた。「アスル-エ・アザデガン」は、第6期議会選挙前日、日刊紙中で最大の発行部数を有した。M.シャムソリヴァエジンは、H.ラフサンジャニその他の一連の高位国家活動家に対する激しい非難を含む記事を再三掲載した。その結果、2000年夏、同紙は、多くの他紙と共に閉鎖された。M.シャムソリヴァエジンは、 起訴され、長期禁錮を言い渡された。

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最終更新日:2004/03/15

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