ハンムラビ師団

第1機械化歩兵師団

 いくつかの共和国親衛隊部隊 のヒロイックな名称は、そのエリートの性格の背景となっている。ハンムラビは、世界最初のメトロポリス、偉大なバビロンを主として建設した支配者だった。ハンムラビ(1792〜1750BC)は、バビロンの43年の治世下で、メソポタミア全土を統一した。彼の即位時、国は、いくつかの争う小国に分裂していた。彼は、それらを統一し、北はペルシャ湾からチグリス及びユーフラテス川 流域を通して、西は地中海沿岸に広がる大帝国の樹立に成功した。

 ハンムラビの最も注目すべき記録は、彼の法典である。歴史的に、文明に知られる最初の4人の立法者の1人であるハンムラビは、「強者は弱者を虐げない」として人民を公正に支配し、法律を通して、人民に安寧と繁栄を与えた。ハンムラビ法典は、最初の法典ではないにも拘らず (最初の記録は、4世紀前に遡る。)、ハンムラビ統治中のバビロンの社会機構を反映する最も保存された法律文書である。これは、全ての者が彼らに何が要求されているのかを読んで、知り得るために、整然とグループ分けされた法律全体を人民に公布した支配者の知られ得る最初の事例である。法典は、高さ2.4mの黒い石の記念碑上に刻まれ、明らかに公衆の目に止まるように意図されたものである。

 1990年の湾岸危機は、米国防情報庁の分析官が、ハンムラビ師団の1個旅団がクウェートとの北部国境に向かい合うイラク南部 に移動しているのを認めた7月16日に始まった。7月17日までに、ペンタゴンの分析官は、イラク-クウェート国境に沿った場所に戦車300両と10,000人以上を有する丸1個師団を示す新たな衛星画像を有していた。メディナ第2師団が国境沿いに到着しつつあり、第3師団が南方に行進していた。続く2日間に渡って、ハンムラビ、メディナ、及びタワカルナの3個師団 が地域に移動しているのが発見された。翌週、イラクは、追加5個師団をクウェート国境直近の集結地域に移動させた。これら部隊の集結は、7月24日に米国のプレス上にレポートされ、Washington Postは、「イラクが約30,000人のエリート陸軍部隊をクウェートとの国境に移動させている・・・」とレポートした

 1990年8月2日、イラクは、クウェートを侵略した。ハンムラビ及びネブカドネザル共和国親衛隊師団は、バスラ高速道路に沿って北方から攻撃し、メディナ及びタワカルナ共和国親衛隊師団は、Wadi al-Batinを横切って西方から攻撃した。作戦は、詳細に計画され、良く組織されていた。イラク人は、クウェート奪取に4個共和国親衛隊師団を使用していた。1990年9月初めまでに、これらの師団は、イラク東南部の侵攻前の位置に復帰し、能力の劣る陸軍の師団が、交替で配置されていた。

 イラクの指導者達は、「左フック」の予測に失敗し、連合国がイラク南部に侵入するのに明らかに気付いていなかった。 以前、イラク指導部は、第7及び第8軍団の西方からの前進に明らかに気付いており、共和国親衛隊タワカルナ機械化歩兵師団は、共和国親衛隊メディナ及びハンムラビ装甲師団がバスラ方面に上手く退却できるように、後衛行動に割り当てられた。

 2月27日、第7軍団は、タワカルナ、アル-メディナ、及びハンムラビの3個共和国親衛隊機械化師団に対して調整された主攻撃を実行した。この作戦が始まると共に、第1歩兵師団は、軍団地帯南部において、第2装甲騎兵連隊の夜間超越を実行し、イラク部隊と直ちに交戦した。北方に対して、第1及び第3装甲師団は、東方に攻撃し、第1騎兵師団は、当該方面へのイラクの突破を阻止するため北部側面を攻撃した。イラク人の射撃開始と共に、第7軍団の大機動部隊は、次々と決定的な打撃を与えた。他の戦区において、イラク部隊は崩壊し、逃走した。ここでは、彼らは踏み止まり、戦った。

 2月27日の午後と夜間を通して、アメリカ第64装甲連隊第1大隊及び第4大隊の戦車兵、ブラッドレイの射手、ヘリ操縦手及び砲手は、西からのアメリカの新たな攻撃に対応するため再配置を試みているか、又は単に逃走している数百両の車両を射撃した。第24師団の幕僚が、共和国親衛隊のハンムラビ師団 の部隊が第24師団の前線を横断しているのを探知したとき、McCaffreyは、かつてのエリート部隊に対して9個砲兵大隊とアパッチ大隊の射撃を集中させた。翌日、28日の夜明け、数百両の車両が、8号線上及び砂漠を横切る各所でぶつかって、煙を上げていた。2月25〜27日 の第24師団の峡谷の戦闘は、師団戦区で遭遇した全てのイラク部隊を無力化し、共和国親衛隊師団のほとんどを南方に陽動し、第7軍団 は、西からそこに侵入し、その場で部隊を撃破するか、彼らを捕虜に取った。

 アメリカ第7軍団は、その戦区におけるイラクの軍事力を組織的に撃破した。共和国親衛隊司令部の破壊を完遂するために、Franks将軍は、左翼に第1騎兵師団、右翼に第1歩兵師団 が巻き込む大包囲を実行した。罠は、北方に総退却するイラク人の無統制の帯上で閉じられた。タワカルナ師団の撃破と共に、イラク最高司令部は、ハンムラビ師団に北方に移動を開始し、ユーフラテス川 を越え、西部でのアメリカの攻撃を避けるように命令した。

 2月27日、アル-バスラ市の西方に、共和国親衛隊ハンムラビ装甲師団の部隊は、共和国親衛隊歩兵師団の四散した部隊と共に、前進する連合軍からの重度の圧力を防御し続けた。これら部隊のいくつかは、ユーフラテス川を渡って逃走に成功した。ハンムラビは、ブッシュ大統領が100時間後に初めて地上戦の終結を命令したとき、損害軽微だった。DIAは、クウェートで敗れた師団の70,000から80,000人以上が、アル-バスラ市に流入していると見積もった。

 1991年3月1日現在、戦車約840両(その内少なくとも365両は、共和国親衛隊のT-72だった。)、その他の装甲車両1,412両(ほとんど、装甲兵員輸送車)、及び各種砲兵279門が、今なお残存イラク部隊の手にあり、連合国の統制外にあった。全体として、イラク人がHawr al Hammar幹線道路に到達し、北方に逃げようと試みていたとき、共和国親衛隊のハンムラビ師団に属する少なくとも戦車39両及びその他の装甲車両53両が、1991年3月2日 早朝、アメリカ第24(機械化)歩兵師団により撃破された。戦闘は、7,000人のイラク部隊の兵士が第24機械化歩兵師団の巡察を射撃した後、3月2日に起こった。0630のイラクの攻撃後、Barry R. McCaffrey少将は、0815に始まる突撃のために、攻撃ヘリ、戦車、戦闘車両及び砲兵を集結させた。砲兵、装甲、機械化歩兵、及びアパッチ部隊は、イラク車両の長列を停止させ、撃滅するために協同した。第24師団は、戦車、トラック、又は自動車 等、幹線道路に移動する全車両が破壊されるまで、朝中、イラクの縦隊を粉砕し続けた。これは、McCaffreyがハンムラビ師団の残余 の撃破において正当であったかに対する議論を引き起こした。ワシントンの分析官とシュワルツコフ将軍の本部は、イラク人が先に射撃したというMcCaffreyの主張に懐疑的だった。他の将校は、イラク人が先に射撃したというMcCaffreyの主張に異議を挟まなかったが、第24師団 が停戦中、何故、退却するイラク兵の進路に移動していたのか質問した。

 CIAの行動後評価は、ハンムラビ師団を含めて、共和国親衛隊の装甲車両の半数が湾岸戦争を脱し、1994年10月にクウェートを脅かしに戻ったことを示した。

 1994年10月3日から9日の間、イラク人は、共和国親衛隊師団と戦車1,000両以上を含む70,000人をクウェートの北部国境に集結させた。1994年10月初め、エリートのイラク共和国親衛隊のハンムラビ師団の部隊が、イラク南部のShaihah飛行場に陣地変換しているのが探知された。これは、1990〜1991年の湾岸戦争以来、共和国親衛隊部隊の最南部の配備であった。公式筋は、部隊が約350両の戦車を有すると語った。10月8日までに、ハンムラビ師団の第15機械化旅団は、クウェート国境から約20kmに配備されていた。その砲兵部隊は、南のクウェート方向を狙っていた。これら全ての部隊は、弾薬、食料、及び燃料 を完全装備し、合衆国は、これが単なる演習ではないとの結論を導いた。10月8日までに、これら部隊の移動は、既にイラク南部に存在した部隊と組み合わさって、イラク南部のイラク部隊の戦力を64,000人まで持っていき、8個師団に組織された。10月9日までに、徴候は、兵站基地がこれら配備の範囲内で設置されている状態だった。イラクの南方への移動は継続し、10月11日までに、イラクが10月13日までに攻撃を開始できるものと見積もられた。

 1997年初期現在、共和国親衛隊ハンムラビ師団は、Marshesの正面、イラン国境が広がるNassiriya南部に配備されていたという。1997年3月初めまでに、共和国親衛隊のアル-アベド及びハンムラビ師団、並びに第2師団及び第10装甲旅団は、Sulaimaniya方面の各軸に沿って集中していた。南部軍団(共和国親衛隊のAl-Fath Al-Mubeen部隊司令部 )に配属された共和国親衛隊のハンムラビ部隊司令部は、Nassiriya州のその陣地を離れ、1997年3月2日、Kirkukに到着した。その進路は、Chamchamal市の北部に向かった。その装甲車両は、鉄道でNassiriyaからKirkukに輸送された。

 1999年初期現在、「ハンムラビ」部隊司令部(Quwat Hammurabi Hares Jimhouri)は、Al-Fathul Mubeen南部軍団の指揮の下、SuweiraとAl-Kutに2ヶ所の本部を有した。

 敵対筋は、1999年1月、「砂漠の狐」作戦中のサダム体制に与えられた損害が、将兵の死亡者88人、将校3人を含む負傷者146人を含んだと主張した。各種火砲36門が破壊された。「ハンムラビ」部隊に所属するAl-'Amerの 弾薬庫は、突撃銃560挺、防毒マスク600セット、手榴弾7,000個、Valmara地雷105箱、多数の対空機関砲及び弾薬箱31個を含めて破壊された。

 イラク国会は、抵抗勢力がシーア派に不利な食料及び医薬品の組織的配給遅延に抗議した後、1999年6月、ハンムラビ共和国親衛隊師団の戦車がRumaithaとKhudurの町を攻撃したと報告した。村民14人が殺害され、100人以上が逮捕され、家屋40件が破壊された。サダム・フセインは、Suwayra町(バグダッド南東90km)の「Al-Fateh Al-Mubeen」共和国親衛隊 司令センターに、これらのデモを鎮圧するように命令した。ハンムラビ師団の戦車は、「Faun」戦車輸送車に積載され、イラク南部の両市まで運搬され、99年6月26日朝に到着した。共和国親衛隊の戦車は、同日午後、Rumaitha市とその周辺のBeni Zureij族及びKhudurとその周辺のbani Hechaim族のAlbu Hassaan支族に集中して、両市の砲撃を開始した。反国家抵抗部隊とサダムの部隊間の衝突は、戦車及び砲兵により支援された共和国親衛隊部隊が両市に侵入できた6月27日早朝まで続いた。

 2000年10月12日、共和国親衛隊のハンムラビ師団は、バグダッドの基地から西方に移動を始めた。移動は、一般にヨルダン方向だったが、イラクの軍事力の機動又は野外行進以外のものという徴候はなかった。当時、ハンムラビ師団は、約15,000人から成ったという。

 2000年10月後半現在、イラクは、ヨルダンの近くに4〜5個装甲師団を有していた。この1つは、シリア国境の100km以内にも位置していた。配備の主目的は、パレスチナ人に対する「象徴的」なショーだった。移動は、パレスチナ人との団結について「正に語っている」他のアラブ諸国以上のことを行っているのを見せるイラクの方法として見られた。

 2000年10月24日現在、バグダッド西部へのイラク部隊の相当な集結があった。米情報部は、過去3週間に渡って、これを観察し続けていた。米国防総省によれば、これは、イラク軍の年次訓練周期の一部だった。米国の最良の見積は、これが特に訓練活動であり、 イラク部隊は、その近隣諸国に対して何らかの威嚇行為を行う脅威姿勢を取っていないというものだった。部隊は、攻勢又は威嚇方法において使用するのに要求される兵站支援の不可欠な要素を有していなかった。部隊が位置している西方には、今なお多数のイラク兵が存在した。移動は、本質において局地的、訓練かつ行政的なものに見える。中東において、これは、パレスチナ人の支援のための西部国境へのイラク部隊の集結として解釈された。しかし、米国防総省は、その説明に同意しなかった。

 2000年10月末までに、イスラエルに対する戦力の誇示のために前月イラク西部に駐屯していた装甲部隊は、解除され、更に遠い位置に移動する過程にあった。共和国親衛隊のハンムラビ師団 に代表されるイラク部隊は、イスラエルに対する配備を意図されたものでは決してなかった。その出現は、単に、アラブ・イスラエルの全面戦争が勃発すれば、それに参戦しようとするイラクの希望の拡大に過ぎない。

 2000年11月初めのインタビューにおいて、Condoleezza Rice (ジョージ W.ブッシュ政権のトップ外事顧問)は、「我々は、ちょうど今、バルカンに平和維持部隊を有しており、サダム・フセインのハンムラビ師団が 、実際に国境の反対側、ヨルダンに侵入すれば、我が部隊を増強しなければならないが、バルカンの部隊は任務外であり、戦闘準備体制にないため、それを使用できない」と主張した。

 2000年11月7日までに、秋季軍事演習周期が、イラク中であったようである。事は、正常に戻った。ハンムラビ師団を含むいくつかの部隊は、バグダッド南西に移動し、主として、その駐屯地に帰還していた。

 2000年12月、イラクがシリアとヨルダンの国境近隣に駐屯させるために、「Al-Maqdis」と呼ばれる特殊軍団を編成し始めたと報告された。報告によれば、新軍団は、「サダム決死隊」の2個師団、及び共和国親衛隊のハンムラビ師団 の1個旅団に加えて、第2機械化歩兵師団の部隊から成るという。他の報告によれば、2000年12月、サダム・フセインの次男クサイは、イスラエルの攻撃の場合におけるシリア-イラク間の軍事協力のための危機対応計画を審議するためにシリアを訪問していたという。クサイは、統合指揮・統制センターを設置し、2個イラク装甲師団(第10装甲師団と未詳共和国親衛隊師団)をシリアへの配備の高度準備状態に置くことで合意したという。

 2001年8月、エルサレムのイスラエルのWebサイトDEBKA.comは、1,000人以上のイラク部隊が2001年7月10日以来ヨルダンに侵入しており、更なる侵入の準備においてイラク西部国境を越境する回数が10回を数えたという未確認レポートを公表した。イラク部隊は、恐らく、共和国親衛隊のハンムラビ師団及び4個機械化歩兵旅団を含んだ。

■部隊

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第8機械化歩兵旅団

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第9機械化歩兵旅団(別説によれば、第14機械化歩兵旅団)

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第18装甲旅団(別説によれば、第17装甲旅団)

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最終更新日:2004/03/15

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