アル-メディナ師団

第2装甲師団

 1990年8月2日、イラクは、クウェートを侵略した。ハンムラビ及びネブカドネザル共和国親衛隊師団は、バスラ高速道路に沿って北方から攻撃し、メディナ(アル-メディナ・アル-ムナワラ、「メディナ聡明王」)及びタワカルナ共和国親衛隊師団は、Wadi al-Batinを横切って西方から攻撃した。作戦は、詳細に計画され、良く組織されていた。イラク人は、クウェート奪取に4個共和国親衛隊師団を使用していた。1990年9月初めまでに、これらの師団は、イラク東南部の侵攻前の位置に復帰し、能力の劣る陸軍の師団が、交替で配置されていた。

 イラクの指導者達は、「左フック」の予測に失敗し、連合国がイラク南部に侵入するのに明らかに気付いていなかった。以前、イラク指導部は、第7及び第8軍団の西方からの前進に明らかに気付いており、共和国親衛隊タワカルナ機械化歩兵師団は、共和国親衛隊メディナ及びハンムラビ装甲師団がバスラ方面に上手く退却できるように、後衛行動に割り当てられた。

 2月27日、第7軍団は、タワカルナ、アル-メディナ、及びハンムラビの3個共和国親衛隊機械化師団に対して調整された主攻撃を実行した。この作戦が始まると共に、第1歩兵師団は、軍団地帯南部において、第2装甲騎兵連隊の夜間超越を実行し、イラク部隊と直ちに交戦した。北部に対して、第1及び第3装甲師団は、東部を攻撃し、第1騎兵師団は、当該方面へのイラクの突破を阻止するため北部側面を攻撃した。イラク人の射撃開始と共に、第7軍団の大機動部隊は、次々と決定的な打撃を与えた。他の戦区において、イラク部隊は崩壊し、逃走した。ここでは、彼らは踏み止まり、戦った。

 1991年2月27日、アメリカ第1装甲師団は、Al Busayyahの東約80kmにおいて、イラクのタワカルナ、アル-メディナ及びアドナン共和国親衛隊師団の残余と戦った。前進に従ったいくつかの大規模交戦の1つにおいて、アメリカの第2旅団、第1装甲師団は、砲兵射撃を受けたが、1時間未満で、当該砲列だけではなく、メディナ師団の戦車61両と装甲兵員輸送車34両も 撃破することができた。

 第3「Phantom」歩兵旅団は、1991年2月24日から28日までの砂漠の嵐作戦中のイラク共和国親衛隊司令部 に対する攻勢作戦中、第1装甲師団の前衛旅団であった。2月27日、第3旅団は、地帯の共和国親衛隊部隊と接触を確立し、撃破するために、追撃作戦への転移を命令された。旅団は、共和国親衛隊の主要兵站基地を守備するアドナン師団を攻撃し、捕虜(EPW)465人を捕まえ、他のイラク4個師団の部隊により増強されたメディナ装甲師団と接触を持った 。激戦は、戦車82両、装甲兵員輸送車31両、火砲11門、トラック48両、高射機関砲3門の撃破に終わり、ブラッドレイ騎兵戦闘車2両、負傷(WIA)30人及び戦死(KIA)1人の損害で、捕虜(EPW)72人を捕まえた。

 1991年2月27日、イラクの作戦及び戦域予備部隊の残余は、アル-バスラ西部及び南部において、連合国からの重度の圧力に対して防御を試みた。第10装甲師団の残余部隊は、イラク-クウェート国境の真北において、共和国親衛隊アル-メディナ師団の残余と合流し、前進する米軍に対して防御を試みたが失敗した。

 1997年現在、メディナ(Madinah)師団は、バグダッド防護に割り当てられた。

 1997年2月現在、共和国親衛隊アル-メディナ・アル-ムナワラ装甲師団は、配備のための警戒態勢に置かれていたという。その装甲旅団の1つは、Al-Rashdiyaに配備され、その他は、Al-Taji軍事基地に存在する。1997年3月初めまでに、共和国親衛隊の第10装甲旅団(バグダッドのAl-Tajiに駐屯する共和国親衛隊のアル-メディナ・アル-ムナワラ部隊に配属)は、Nahiyat Al-Rabee'にも到着している。1997年10月までに、イラク共和国親衛隊部隊は、Arbil南西30km、Makhmurに集結された。メディナ・アル-ムナワラ装甲師団とアドナン機械化歩兵師団は、戦車200両、4個重砲大隊及び兵員10,000以上と共に地域に移動した。

 1999年初め現在、「アル-メディナ・アル-ムナワラ」(メディナ聡明王)部隊司令部(Quwat Al-Medina Al-Munawera Hares Jimhouri)は、Allahu Akbar部隊(北部軍団)の指揮の下、Al-TajiとAl-Rasheediyaの間に駐屯していた。

 敵対筋は、1999年1月 、「砂漠の狐」作戦中のサダム体制に与えられた損害が、将兵の死亡者21人、負傷者87人、31両までの戦車及び装甲車両の破壊又は損傷、「アル-メディナ・アル-ムナワラ」部隊に所属する弾薬庫の破壊、並びに19ヶ所の対空標的の破壊を含んだと主張した。

 2002年9月中盤、米国の衛星は、イラク共和国親衛隊メディナ師団の2個旅団が、バグダッド北部、Taji近郊の駐屯地を離れているのを探知した。部隊は、米国の攻撃に余り脆弱ではない位置に移動したようである。

■部隊

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第2装甲旅団

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第10装甲旅団

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第14機械化旅団

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第17装甲旅団

第2次湾岸戦争

 木曜日、数両のBMPに乗車したイラクのある「軽快支隊」が、猛烈な砂嵐の援護の下、バグダッド南西、カルバラとエン-ナジャフの間の米軍の前進陣地を攻撃した。携帯式ミサイルにより、戦車6両が破壊され、 たちまち砂に埋もれた。後に、これは、共和国親衛隊の編成下に含まれるエリートの「メディナ」装甲師団の兵士だと分かった。特にバグダッドの第1防衛線で壕に入っていた師団は、戦争過程に転機を与え、米英軍を停止させるよう命令された。この戦闘は、 今後も予想される。これは、連合国にとって真の瞬間、英国首相トニー・ブレアが語ったように「決定的試練」ともなる。

 連合国は、「メディナ」(アル-メディナ・アル-ムナワラ)と比較し得る軍部隊とは今まで衝突したことがなかった。これは、1万人の高給取りの職業軍人、夜間暗視装置を有するT-72戦車250両、同数のBMP、フランス製自走砲GCT、アメリカ製M-109(イランとの戦争で鹵獲)及びオーストリアの榴弾砲GHN-45を含む火砲約60門である。親衛隊は、正規陸軍の兵士と異なり、携帯式対空ミサイル「ストレラ」(アメリカの「スティンガー」のロシア版)を有している。

 他の7個親衛師団と共に、これは、 体制の鉄の支えであり、主人に熱狂的に忠実で、育て上げられた厳しく躾けられた僕である。サダム・フセインの「メディナ」へのほぼ全ての委任事項は、今まで模範的に遂行された。しかしながら、今回の任務、 バグダッドへの道を守り抜くことは、そのような不屈の兵士とってすら手に負えないように見られる。勇気に次ぐ勇気、経験に次ぐ経験、そして連合国側の全ては、恐らく、4倍もの数的優勢であろう。対峙する「栄光の」米陸軍第101空挺師団 は、間もなく、救援に向かっているアメリカ第3歩兵師団の部隊と合流するだろう。そうなれば、約3万5千〜4万5千人となる。

 「メディナ」の敗北と考えられた同夜は、永遠に記憶された。この後、師団は、密集隊形のその車両を無防備な空の下に残さなかった。今、その戦車と火砲(アメリカ兵との昨日の戦闘に参加したものを除き)は、広大な国土に分散し、 ユーフラテス川流域の村落、町及び農場に隠された。それ故、B-52を使用した絨毯爆撃については、忘れることができる。極めて危険な低空で標的を探し出すF-16、A-10及びF/A-18による精密打撃を加えることしか残っていない。

 「メディナ」は、 攻撃が指揮に関してベターであるが、防御も、攻撃も首尾良く行える状態にある。その防御戦術は、全イラク陸軍の戦術と同様、ソビエト式で構築されている。陣地は、縦深7kmに梯隊化された少なくとも3線の防御地帯で組織される。野戦強化陣地は、完全に連結した塹壕、相互にカバーする射撃地区を有する地下火点、鉄条網及び地雷障害、掩蔽壕、砲塔まで地面に隠した戦車用掩体から成る。

 連合国の航空隊は、この陣地を最近絶えず攻撃しており、「アパッチ」ヘリが行動している。しかし、「メディナ」の車両は、 しかるべく掩蔽され、対空火力は、師団の損害が事実上ない位濃密である。

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最終更新日:2004/03/15

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