タワカルナ師団

第3機械化歩兵師団

 いくつかの共和国親衛隊部隊 のヒロイックな名称は、そのエリートの性格の背景となっている。タワカルナ師団は、「神頼み」、又は乱暴に「神は我々を助ける」若しくは多分「我々は神を信じる」として訳されるTawakalna Ala Allahのフレーズにその名を由来する。Tawakalna Ala Allahのフレーズは、戦争終盤の1980年後半にイラクがイランに対して行った一連の戦役の勝利を指し示すために使用された。Tawakalna Ala Allahのフレーズは、1999年10月31日のエジプト航空990便 の事故で有名となった。飛行機を意図的に墜落させたと疑われる副操縦士がアラブ語で「Tawakalna Ala Allah」 と語るのが、操縦席のボイスレコーダーのテープで聞かれた。

 1990年8月2日、イラクは、クウェートを侵略した。ハンムラビ及びネブカドネザル共和国親衛隊師団は、バスラ高速道路に沿って北方から攻撃し、メディナ及びタワカルナ共和国親衛隊師団は、Wadi al-Batinを横切って西方から攻撃した。作戦は、詳細に計画され、良く組織されていた。イラク人は、クウェート奪取に4個共和国親衛隊師団を使用していた。1990年9月初めまでに、これらの師団は、イラク東南部の侵攻前の位置に復帰し、能力の劣る陸軍の師団が、交替で配置されていた。

 戦術レベルにおいて、連合国の問題の1つは、共和国親衛隊の塹壕をいかに上手く破壊するかだった。1991年2月15日、統合軍航空部隊司令官(JFACC) の幕僚がBDA規定を満たしたと考えたちょうどその時、国防情報庁(DIA)は、タワカルナ共和国親衛隊師団の戦闘効率を74%と、CENTCOMの48%の見積より26%大きい戦力を再見積することにより 水を差した。DIAは、上空及び中高度センサーを使用して、そのBDAを得ていた。1個師団のみの分析後、DIAは、総合戦闘能力見積の増加とBDA撃破基準の変更をARCENTに強制した。責任は、壊滅的な撃破のみを探知できる上空及び中高度センサーへのDIAの依存と、ワシントンが航空ビデオテープへのアクセスを有していなかった事実にあった。

 新しい戦術は、暴露され、脆弱な共和国親衛隊に対するA-10のユニークな火力の指向を包括した。A-10は、当初、クウェート-サウジアラビア国境近隣の前線部隊に対して使用された。1991年2月27日、A-10の指揮官は、共和国親衛隊タワカルナ装甲師団の攻撃を準備した。そのような堅固に防御された地域の攻撃において、A-10は、通常の2機編隊の代わりに、大規模編隊で飛行した。A-10は、師団に対して3日間の航空団規模の攻撃を実施し、その部隊を砂漠の砂の下深く壕に入れたイラクの努力と、向上した欺偏の努力にも拘らず、強力な結果を得た。大規模攻撃と装甲車破壊戦術で設計され、それを訓練されたパイロットにより操縦されたユニークな機体の組み合わせは、イラクの共和国親衛隊に対する 連合国の航空打撃の大きな前進を証明した。

 1991年2月23日、連合国の地上戦役の前日、監視衛星は、親衛隊のタワカルナ師団が、多分、第1騎兵師団の陽動に欺かれ、ゆっくりと南方に移動していることを示した。他の共和国親衛隊師団は、その車両を無防備にしようとも、行動に備えようとしていなかった。

 イラクの指導者達は、「左フック」の予測に失敗し、連合国がイラク南部に侵入するのに明らかに気付いていなかった。以前、イラク指導部は、第7及び第8軍団 の西方からの前進に明らかに気付いており、共和国親衛隊タワカルナ機械化歩兵師団は、共和国親衛隊メディナ及びハンムラビ装甲師団がバスラ方面に上手く退却できるように、後衛行動に割り当てられた。

 1991年2月25日の夜遅く、アメリカ第2装甲騎兵連隊は、タワカルナ師団と第12装甲師団第50旅団の部隊と遭遇した。連隊は、その時即席の防御を引き受けた第50旅団 を撃破し、2月26日未明、タワカルナに対する攻撃続行を準備した。

 アメリカ第7軍団戦区において、2月26日、第1装甲師団は、日出後短時間、A1 Busayyahに重砲とロケットの準備射撃を行い、昼までに、小さな町を蹂躙するために砂嵐を抜けて前進していた。第1装甲師団は、北東に転じ、共和国親衛隊のタワカルナ師団を打撃しつつ前進した。同夜遅く、アメリカ人は、敵のエリート部隊に対して夜襲を実施し、翌日まで続いた戦闘において、30から35両の戦車と10から15両のその他の車両を撃破した。

 2月26日夕刻、第3装甲師団は、真東の敵の偵察網を突破し、共和国親衛隊のタワカルナ師団を攻撃した。この攻撃は、極めて不利な気象条件の下、第7軍団 が遭遇した典型的な激戦であり、共和国親衛隊と交戦した。これらの部隊は、重装甲化され、良く築城された防御砲座を占領していた。彼らは、第7軍団の攻撃 に対応するため西側に陣地変換できる予備陣地も準備していた。集中爆撃後ですら、タワカルナ師団のほとんどの部隊は、戦闘能力を残していた。気象条件は悪化し続け、風は、45〜75m/sで吹いていた。激しい雨と吹き付ける砂は、しばしば、100m未満まで視程を減少させた。雲高は、一般に非常に低く、ある上級装甲指揮官の言葉によれば、陸軍航空隊も、空軍も、飛行できなかった。これらの条件の下、第3装甲師団の第1及び第2旅団は、タワカルナ師団の第29及び第9旅団 に対する迅速な攻撃を同時に実行した。師団騎兵大隊と戦車重任務部隊が先頭に立ち、5個砲兵大隊とMLRS発射機27門により支援された第3装甲師団は、激戦において、多数のイラク装甲車両の撃破に成功した。この行動は、結束した戦闘部隊としてのタワカルナ師団を効果的に撃破した。米砲兵は、この戦闘中、極めて有効だと分かった。イラク砲兵は、先制射撃できたにも拘らず、標定され、迅速に制圧又は撃破された。交戦後半、視界は、師団のアパッチ装備攻撃大隊を使用するのに十分なまでに回復した。第2旅団 が作戦を行っていた師団地帯北部において、アパッチの適時到着(JSTARSからの情報により誘導)は、旅団の戦区を対角線上に横切ったが、直射射程外にあった敵の機械化歩兵任務部隊を捕捉した。その部隊は、明らかにタワカルナ師団の他の部隊を増援しようとしていた。部隊の行動後報告によれば、この交戦は、戦車8両と装甲車両19両の撃破に終わった。

 2月27日、第7軍団は、タワカルナ、アル-メディナ、及びハンムラビの3個共和国親衛隊機械化師団に対して調整された主攻撃を実行した。この作戦が始まると共に、第1歩兵師団は、軍団地帯南部において、第2装甲騎兵連隊の夜間超越を実行し、イラク部隊と直ちに交戦した。 北方に対して、第1及び第3装甲師団は、東部を攻撃し、第1騎兵師団は、当該方面へのイラクの突破を阻止するため北部側面を攻撃した。イラク人の射撃開始と共に、第7軍団の大機動部隊は、次々と決定的な打撃を与えた。他の戦区において、イラク部隊は崩壊し、逃走した。ここでは、彼らは踏み止まり、戦った。

 1991年2月27日、アメリカ第1装甲師団は、アル-バスラの東約80kmにおいて、イラクのタワカルナ、アル-メディナ及びアドナン共和国親衛隊師団の残余と戦った。

 1991年2月27日午後初め、アメリカ第2装甲騎兵連隊は、シャマルの中、COLLINSの東を前進した。連隊は、第1歩兵師団の正面を警戒しつつ、地上戦の初日 に突破していたサウジ国境に沿った地雷帯から到着したところだった。騎兵は、敵陣地の一般 的なイメージのみを有していた。イラク人は、長い間、アメリカの攻撃が南方及び東方から来るものと予想しており、数百両の戦車を今半狂乱で転移させつつ、西方からの猛攻に対応するために砲列、及びその他の車両を引き連れた。イラク側では、部隊の位置は、ほぼ分刻みで変化していた。Holderの部下は、COLLINSの東32km、TANGERINE段階線に接近し、騎兵部隊の1つが、軍用地図上の南北線、69 Eastingのビルから射撃を受けた。騎兵は、 射ち返し、東進を続けた。次の2時間、更なる敵の射撃がやってきたが、直ちに射ち返された。

 1600直後、騎兵は、73 Eastingに準備された陣地にT-72戦車を発見した。連隊は、致命的な優勢に対して熱線画像機材を使用し、その視野に現れた各戦車を撃破した。しかし、これは、アメリカ人がかつて戦ったものとは別種の戦闘だった。最初の戦車の撃破は、数百名ものイラク兵の投降の合図とはならなかった。戦車は、待機と戦闘を維持した。異常に断固とした射撃と大量の戦車の理由は、直ぐに明らかになった。

 騎兵は、激戦を望むイラクの第12装甲師団とタワカルナ師団の2個師団を発見していた。アメリカの連隊は、両師団間の間隙を見つけ、暫時、アメリカ部隊は、地上戦役中、唯一明らかに優勢ではなくなった。しかし、第24師団 がその峡谷で戦闘を見つけていたとき、熱線画像機材は、砂埃を通して、遠距離敵車両の姿を射手に与え、致命的な先制射撃の優勢を与えた。4時間で、アメリカ人は、戦車及び装甲兵員輸送車を撃破し、攻撃ヘリは、砲列を沈黙させた。73 Eastingの戦闘が1715に終わったとき、第2装甲騎兵連隊は、少なくとも戦車29両及び装甲兵員輸送車24両、並びに多数のその他の車両及び掩蔽壕を撃破し、1,300人を捕虜に取っていた。

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最終更新日:2004/03/15

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