ネブカドネザル師団

第6自動車化歩兵師団

 いくつかの共和国親衛隊部隊のヒロイックな名称は、そのエリートの性格の背景となっている。ネブカドネザル(Nabu Khuth Nussar)自動車化師団は、新バビロニア帝国(605〜562BC)の2代目の王、ネブカドネザルII世にちなんで名付けられた。バビロニア書式の名前は、Nabu-kudurri-usurであり、その2番目の部分は、様々に解釈される(「我が王冠を守りたまえ」、又は「ティアラ(頭の飾り)」、「帝国」、「標識」、「仕事」 )。原語は、多かれ少なかれ、ヘブライ語、ギリシア語、及びラテン語の訳語で損なわれており、近代的な英語書式、Nabuchodonosor、Nebuchadnezzar、及びNebuchadrezzarは、それらに由来している。

 ネブカドネザルII世は、エルサレムの征服とバビロンの再建で特に知られている。43年間(605〜562BC)の彼の長期治世は、短命な第2バビロン帝国 により達成された壮大さの頂点を記録した。前世紀中に発見されたネブカドネザルの多くの碑文は、専ら、バビロンその他の場所での彼の建築活動のみを語っている。2、3の歴史文書しか、彼の治世の出来事を扱っていない。 彼の名前が現れず、彼の活動の足跡が見つからないバビロン周辺の場所はほとんどない。彼は、彼の父、Nabopolassarの治世19年目(607BC)、独立軍の司令官として、バビロン年代記に初めて言及された。キンメリア人とスキタイ人が最終的に粉砕された後、彼の全ての遠征は、西方に向けられた。ネブカドネザルは、2年以上の包囲後、ネブカドネザルの治世19年目、つまり、586BCの夏にエルサレムを奪取した。彼は、エルサレムと寺院を墓石、残った住民の大多数をバビロンに強制移住させた。

 ネブカドネザルは、多分、彼の精巧なバビロン建設プロジェクトで最も知られている。この王は、ネブカドネザルの妻 が山岳地の故郷を思い出すために多分建設されたテラス状の庭園、バビロンの空中庭園を建設した。イシュタール門は、ネブカドネザルのもう1つの偉大な業績だった。これは、空中庭園の近くに位置し、 竜と牛を含む各種動物のレリーフで飾られた。

 ダニエル書と関連して、Shadrach、Meshach、及びAbednegoは、ネブカドネザル王の統治の下、バビロンの行政官として働かされた。王は、 金のイメージを設定し、各人がそれを敬って装飾するか、さもなければ、溶鉱炉に投げ込むと命令した。王の部下は、3人を炉に投げ込んだが、神は、彼らを護るために天使を送っていた。Shadrach、Meshach及びAbednegoは、火の中から出たとき、無傷で、彼らの服は焦げてもいなかった。

 1990年8月2日、イラクは、クウェートを侵略した。ハンムラビ及びネブカドネザル共和国親衛隊師団は、バスラ高速道路に沿って北方から攻撃し、メディナ及びタワカルナ共和国親衛隊師団は、Wadi al-Batinを横切って西方から攻撃した。作戦は、詳細に計画され、良く組織されていた。イラク人は、クウェート奪取に4個共和国親衛隊師団を使用していた。1990年9月初めまでに、これらの師団は、イラク東南部の侵攻前の位置に復帰し、能力の劣る陸軍の師団が、交替で配置されていた。

 湾岸戦争中、共和国親衛隊部隊の包囲と撃破は、連合国の計画立案者の最優先だった。2月26日、第18空挺軍団部隊は、その攻撃を北東に転じ、ユーフラテス川 流域に進入した。西部及び北部側面を防護するフランスとアメリカの第101及び第82空挺師団と共に、アメリカ第24師団は、流域に向けLuckの攻撃の先頭に立った。最初の障害は、天候だった。 目標地域における季節外れのシャマルが、一日中熱線画像機材に厳しい野外の試練を与えていた渦巻く埃の厚い雲を吹き飛ばした。朝の再補給後、第24師団の全3個旅団は、1400、Jabbah及びTallilのイラク飛行場に向け出発した。これらの攻撃において、第24師団は、戦争で最も激しい抵抗に遭った。イラク第47及び第49歩兵師団、共和国親衛隊のネブカドネザル師団、及び第26コマンド旅団は、激しい射撃を受けたが、踏み止まり、戦った。第1旅団は、4時間に渡って戦車の直射及び砲火を受けた。前進当初、地形は、敵に明白な優勢を与えた。第24師団の兵士は、第24歩兵師団の前世代の兵士達が直面した太平洋の諸島での 日本の珊瑚礁陣地を髣髴させる岩壁に壕を掘ったイラク砲兵と自動火器を発見した。しかし、イラク兵は、日本兵のように防御に頑強ではなく、第24師団は、前任者よりも遥かに良好な兵器を有していた。アメリカの砲兵隊員は、そのFirefinderレーダーで敵の砲列を標定し、敵の各斉射に対して3から6斉射を返した。当該優勢と共に、アメリカの砲手は、イラクの丸6個砲兵大隊を撃破した。 砂埃と漆黒において、アメリカの技術が、米軍に明らかな優勢を与えた。戦車、歩兵戦闘車、及び攻撃ヘリの搭乗員は、良く協同し、イラク人が視認する前に、3,500m以上の長射程でイラク戦車を発見し、打撃することができた。

 1997年2月現在、共和国親衛隊ネブカドネザル師団は、Kutの反対側、イラン国境方向のZurbatya、Badra、及びJassan地域に配備されたという。

 1999年初め現在、「ネブカドネザル」部隊司令部(Quwat Nebuchadhnasser Hares Jimhouri)は、Al-Fathul Mubeen部隊(南部軍団)の指揮の下、Kirkukに駐屯していた。

 敵対筋は、1999年1月、「砂漠の狐」作戦中のサダム体制に与えられた損害が、将兵の死亡者113人、負傷者181人を含んだと主張した。各種火砲23門が破壊された。「ネブカドネザル」部隊に所属するAl-Hamzeh弾薬庫は、突撃銃350挺及び弾薬箱1,240個を含めて破壊された。155mm榴弾砲6門が破壊された。SAM及びローランド・ミサイル発射機3基が破壊された。これらの打撃の結果として、「ネブカドネザル」部隊の第22及び第23旅団は、人員、兵器及び装備に大損害を受けたため、Kirkuk近郊のDibis町から撤退した。これらは、後に再建された。

■部隊

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第19自動車化歩兵旅団

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第22自動車化歩兵旅団

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第23自動車化歩兵旅団

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最終更新日:2004/03/15

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