アル-ニダ師団

?装甲師団

 1994年10月初め、共和国親衛隊のアル-ニダ(神の思し召し)師団(アネダー師団としても知られる。)は、Mosulの鉄道操作場及びバグダッド地域からイラク南部の陣地に移動し始めた。ニダ師団のこれらの部隊は、クルド人の活動が以前から問題となっている北部地域を離れた。これら全ての部隊は、弾薬、食料、及び燃料を完全装備し、合衆国は、これが単なる演習ではないとの結論を導いた。危機は過ぎ去っていないというCINCENTの見積は、アル-ニダ師団の旅団がAn Nasiryah近隣でその北方移動を停止した10月13日午後に確認された。この停止は、AOR内への米軍配備を却下する話し合いを抑えた。国連安全保障理事会は、10月15日、決議949号を満場一致で通過させた。これは、クウェート国境近隣のイラク軍戦力を共和国親衛隊の移動前の戦力に制限した。10月18日までに、アル-ニダ師団は、北に再び移動していた。

 1997年初め現在、共和国親衛隊アル-ニダ装甲師団は、イラン国境方面、Amara州のQal'at Salehに配備されていたという。

 1999年初め現在、「アル-ニダ部隊」司令部(Quwat Al-Nida' Hares Jimhouri)は、Al-Fathul Mubeen部隊(南部軍団)の指揮の下、Ba'qubaとAl-Kutに本部を置いた。

 敵対筋は、1999年1月、「砂漠の狐」作戦中のサダム体制に与えられた損害が、将兵の死亡者147人、将校4人を含む負傷者227人を含んだと主張した。各種野砲23門が破壊された。「アル-ニダ」部隊に所属する弾薬庫が、突撃銃470挺、手榴弾4,500個、弾薬箱2,650個、地雷箱98個、迫撃砲62門を含めて破壊された。27両の戦車及び装甲車両が破壊され、9両のその他車両が損傷を受けた。18門の対空機関砲及びミサイルを含む1個対空中隊が撃破された。弾薬箱14個も破壊された。

 1999年3月現在、重要職務を占めるティクリート出身将校の数が増加し、昇進のチャンスが最小化したため、他の指揮官及び上級将校に否定的に影響していると指摘された。共和国親衛隊において、アドナン師団とニダ装甲師団の師団長は、ティクリート人だった。

■部隊

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第41装甲旅団(別説によれば、第27装甲旅団)

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第42装甲旅団(別説によれば、第28装甲旅団)

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第43装甲旅団(別説によれば、第29装甲旅団)

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最終更新日:2004/03/15

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