共和国親衛隊

アル-ハリス・アル-ジャムフリ

 共和国親衛隊は、イラク最良の地上部隊である。共和国親衛隊は、イラクの最も能力があり、忠実な部隊で、最良の訓練と装備を受けている。親衛隊は、体制擁護を任務とするエリート組織として始まった。この組織は、イランとの戦争の最後の2年間で劇的に成長したエリート攻勢部隊を建設する中核となった。イラン・イラク戦争中、この組織は、1個旅団の宮殿親衛隊から、7個師団、30から33個旅団から成る独立部隊たる共和国親衛隊司令部に拡大された。

 共和国親衛隊司令部は、イラク正規陸軍に対して、人員及び装備の優先権を有する。共和国親衛隊の装甲大隊は、火力を増大するために、陸軍の戦車大隊よりも9両多く有した。 その他の点では、親衛隊と正規陸軍における戦闘部隊の組織は、同一のように見えた。全ての共和国親衛隊の兵員は、召集兵よりも遥かにやる気のある志願兵だった。共和国親衛隊に採用された兵員は、ボーナス、新車及び住宅助成金を与えられた。全員が正規軍よりも多くの訓練を行った。そして全員が夜間暗視能力を有するソビエト製T-72戦車を含むイラクで最も近代的な装備を有した。このエリート軍団は、歩兵、機械化及び自動車化歩兵、並びに装甲師団を含んだ。

 共和国親衛隊は、国防省ではなく、特殊保安庁に従属する。戦闘中は、大本営(GHQ)の作戦統制下に入るものと信じられた。親衛隊と正規陸軍は、個別の制度で維持されたにも拘らず、同じ攻勢又は防勢作戦において効果的に戦う能力を誇示していた。

 1986年初め、サダムは、イランのMehran町を奪取し、Al Fawと交換すると語った。同意の代わりに、イラン軍は、Mehranを再占領し、イラク人にサダムを侮辱させ、彼の戦争遂行能力に疑いを持たせた。Mehranでの敗走の数日後、バース党の指導者達は、バグダッドで「臨時会議」を開き、動員を決定した。大学が閉鎖され、学生達は、夏季訓練キャンプに入れられた。これら学生を徴集に惹き付けるために、バース党員は、志願者が共和国親衛隊に採用されると布告した。共和国親衛隊に入隊するチャンスは、野心的な学生達を惹き付けた。布告前は、サダムの故郷、ティクリート出身の若者だけが、「エリート」の親衛隊入隊を許されていた。共和国親衛隊は、サダムの近衛兵からタフで、良く装備された特殊任務のための部隊に変化し始めた。戦争後半、共和国親衛隊の拡大は、最終段階に入り、イラク陸軍の主要攻勢要素となりつつあった。

 共和国親衛隊は、最終戦闘でのイラン人に対する勝利の鍵であった。共和国親衛隊は、イラン人からAl-Faw半島、Fish湖及びMajnun諸島を奪還した1988年の各複数軍団攻勢作戦における主要突撃戦力だった。これらの作戦において、正規軍が敵を釘付けにし、共和国親衛隊が攻撃した。1988年のこれら攻勢作戦は、その綿密な準備と計画立案で卓越していた。親衛隊の防勢任務は、逆襲で戦闘に決定的に作用するか、又は崩壊する陸軍の陣地を支えるまで保留される戦略予備だった。1987年のアル-バスラ陥落を阻止するために、第12親衛旅団が戦闘に投入された。共和国親衛隊の断固たる防御なしでは、イラン人は、イラク前線を突破していただろう。1988年初め、共和国親衛隊部隊は、 イランの攻勢を予測して、アル-バスラ防衛の弱点を支えるために緊急に派遣された。GHQは、通常、共和国親衛隊を戦闘に投入する権限を留保した。共和国親衛隊は、サダムを支持する重要な政治勢力でもあり、反乱又は市民の蜂起の場合、正規陸軍を埋め合わせるために使用された。

 1988年と1990年の親衛隊の攻勢の成功にも拘らず、共和国親衛隊の戦術的成功は、 主として、広範囲な計画立案、兵站備蓄、及び予行演習に依存するワンセットだった。1987年以降、親衛隊の全ての攻勢は、 非常に脆弱な部隊に対して実行された。1988年に遭遇したイラン部隊は、1987年のKarbala攻勢の失敗と市民の士気低下により衰弱していた。クウェートの装甲部隊は、1990年に奇襲され、クウェート軍主力が駐屯地で蹂躙される中、1個旅団だけが共和国親衛隊に対抗した。共和国親衛隊の戦術ドクトリンは、恐らく、正規陸軍の戦術ドクトリンにより強く洗練されたものである(同一ではない)。イラク人が戦った唯一の重要な戦車戦は、1981年1月に非常に手荒くあしらわれたイランの装甲師団に対する固定防御だった。

 イランとの戦争終結時、共和国親衛隊は、8個師団から成った。その独立歩兵及び砲兵旅団と合わせて、共和国親衛隊は、イラク地上部隊のほぼ20%を構成した。ほとんどの共和国親衛隊重師団は、ソビエト製T-72主力戦車、ソビエト製BMP歩兵戦闘車、フランス製GCT自走砲及びオーストリア製GHN-45牽引式榴弾砲等、全て近代的、最先端の機材を装備していた。

 イラクの共和国親衛隊部隊は、サダムが1990年7月17日にイラク に属する石油収入と占領地を騙し取ったクウェート(とりわけ)を非難する演説を行ったとき、バグダッド周辺の駐屯地から移動し始めた。7月21日までに、共和国親衛隊装甲師団は、クウェートの真北に配備されていた。バグダッドからクウェート国境へと南に続く道路上に、3,000両の軍用車両が存在するとの報告があった。2週間で、イラク最良の軍事力、共和国親衛隊の集団は、ほぼ警告なしでクウェートを攻撃できる位置にまで数百kmを移動した。

 1990年8月1日までに、アル-バスラとクウェート国境間に、8個共和国親衛隊師団(2個装甲、1個機械化、1個特殊戦力及び4個歩兵)が存在した。その集結の迅速さは、イラク幕僚の計画立案の質と程度を指し示した。いくつかの部隊は、その駐屯地から700kmの距離を移動していた。イラク兵は、戦車及び歩兵車両1,500両以上、プラス要求される砲兵、及び兵站により支援されたほぼ140,000人と見積もられた。

 共和国親衛隊司令部は、2個小軍団群、1個独立師団、20個特殊戦力(コマンド)旅団、及び1個海軍歩兵旅団に分かれた。いくつかの共和国親衛隊部隊 のヒロイックな名称は、そのエリートの性格の背景となっている。イラク南部とクウェート北部に配備された第1小軍団群は、ハンムラビ及びメディナ師団の2個装甲師団、タワカルナ師団の1個機械化歩兵師団、及びアル-ファウ師団の1個自動車化歩兵師団から成った。バグダッド南部に配備された第2小軍団群は、ネブカドネザル及びアドナン師団の2個自動車化歩兵師団から成った。独立機械化歩兵師団は、イラクの首都周辺に駐屯するバグダッド師団だった。この共和国親衛隊機械化師団は、潜在的な反逆者に対する目に見え、強力な抑止力として、湾岸戦争中、バグダッドに駐屯していた。加えて、KTOに投入されなかった4個共和国親衛隊師団は、戦争中、国内保安を提供するために編成された。1991年1月、全て自動車化歩兵である更に5個共和国親衛隊師団の編成が布告された。その内、アル-アベド、アル-ムスタファ(「選民」を意味するアル-ムスタファは、知られている他の共和国親衛隊師団とは容易には結び付かない。)、及びアル-ニダ師団の3個の名前だけが知られた。

 1995年、イラク西部のal-Dulaymi族の数人の将校が、5月にクーデターを試みた。フセインは、 参加者を拷問して、処刑した後、その同属に切断された死体を返した。返答として、憤慨したal-Dulaymi族の将校が代表する共和国親衛隊大隊は、Abu Gharaybのイラクの刑務所を攻撃した。忠実な2個共和国親衛隊旅団は、反乱軍を打ち負かしたが、フセインは、通常彼に忠実な共和国親衛隊のいくつかが彼に敵対した事実 に不安になった。共和国親衛隊の粛清は、7月に引き続いた。

 共和国親衛隊司令部は、2個軍団から成る独立司令部である。親衛隊は、イラク地上部隊で最も良く装備され、訓練された部隊である。親衛隊は、それ自身の戦闘、戦闘支援、及び戦闘サービス支援要素を有する自己完結部隊である。共和国親衛隊は、4個装甲/機械化師団と2個歩兵師団を含むものと見積もられている。1個以上の特殊戦力旅団も、共和国親衛隊司令部に従属しているかも知れない。

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最終更新日:2004/03/15

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