ロシア諜報部のイラク史

 イラクを巡る現状を背景に、伝統的に地政学的かつ経済的次元を有するここでのロシアの利益の事後の保障に関する問題がますます焦眉となっている。18〜19世紀、メソポタミアは、ザカフカーズへのロシアの敵国の拡張に対する「障害」となった。ザカフカーズは、ペルシャ湾一帯その他の近東領域へのロシアの進出にとって、理想的な橋頭堡だと考えられた。更に以前、抜け目ないロシア商人は、同国との貿易関係の潜在性を評価していた。20世紀の60年代〜70年代、イラクは、モスクワのエネルギー及び軍産複合体にとって特別の重要性を獲得した。しかしながら、イラク方面においては、常に、有力かつ狡猾なライバルがこれを妨害した。それ故、ここでのロシアの利益の保障において鍵となる役割は、太古の昔から国家対外政策の秘密機構が遂行した。今特に、特務機関には、戦後イラクの復興へのモスクワの当然の参加の手配が控えている。

■「ロシア汗」の目と耳

 アラブの年代記は、バグダッドの市場及び街路におけるキエフの間諜の出現を古代ルーシの活発な近東政策の開始と結び付けている。838年、ロシア汗の大使がコンスタンチノープルに着任し、間もなく、その間諜は、アッバース王朝の首都にも浸透した。商人に変装して、彼らは、ここで、キエフがビザンチンとアラブの対立のニュアンスを見極められる重要な情報を収集した。その「道と国の本」において、歴史家イブン-ホルダドベフは、バグダッド当局が異端者ほど妨害を加えなかった以上、ロシア商人がキリスト教徒の大商人を詐称したと指摘している。後に、宗教の偽装は、ロシア諜報部の現地実践において広く利用された。

 11世紀末〜12世紀初め、「神の僕」達が、メソポタミア、シリア及びパレスチナにおいて情報収集に従事し、チェルニゴフの修道院長ダニールは、エルサレム国王バルドゥインI世を惹き付けることすらできた。このようにして獲得された経験は、事後、ソビエト特務機関にも役立った。1929年にイラクのアルメニア主教区を率いたエピスコプは、同国における統合国家政治局(OGPU)外国課(INO)の最も価値あるエージェントの1人だった。しかしながら、これはかなり後の話で、12世紀に近東政策のピークに達した後、キエフ・ルーシは、衰退に向かった。ピョートルI世の東方政策がオスマン及びペルシャ帝国の利益と衝突した後に初めて、ロシア諜報部は、メソポタミアに再び視線を向けた。トルコのイラク領有に関する情報収集に初めて着手したのは、1699年秋にコンスタンチノープルに着任したロシア皇帝の公使エメリヤン・ウクラインツェフだった。彼は、トルコ全州、特にメソポタミアの正教界が従属していたエルサレム主教ドシフェイの支持に頼った。3年後、スルタンの宮殿にピョートル・トルストイが派遣され、最初の常設の駐オスマン帝国ロシア大使館を率いた。彼は、バグダッド及びキルクークを含むその多くの領域におけるモスクワの最初のエージェント網の創設者だと考えられている。ピョートルのこの代理人は、ドシフェイ主教の援助に頼っただけではなく、現地アルメニア人共同体とも接触に入った。

 ウクラインツェフとトルストイの業績は、その後のイラクにおけるロシア諜報部の方法を決定した。これは、ソビエト時代でも切実性を失わなかった。20年代〜30年代、OGPU外国課は、ここで、何よりも、宗教・民族少数派である正教、アルメニア・グレゴリオ及びアッシリア・カルデア共同体に頼った。トルストイは、反露活動の橋頭堡としてのその利用の危険性を指摘して、メソポタミアへの欧州の大国の進出に初めて真剣な注意を向けた。19世紀から、この脅威の中立化は、イラク方面における諜報部の優先課題となっている。世紀後半、ザカフカーズに最も近く位置するイラクのクルド人地区が特別の意義を獲得した。ロンドンが反露政策において現地部族を利用しようとした以上、サンクト・ペテルブルグも、彼らと秘密関係を樹立した。ここで最大の成果を収めたのは、1864〜77年に駐オスマン帝国ロシア大使だったニコライ・イグナチェフの密使だった。

 20世紀初め、ロシア諜報部は、英国人がアゼルバイジャン及び南ダゲスタンでの蜂起の組織のために、エン-ナジャフ及びカルバラの聖職者階級を利用しようと試みたとき、イラクのシーア派にも初めて視線を向けた。

■ルビヤンカのイラクの秘密

 1909年、セルゴ・オルジョニキゼが率いるカフカーズのボルシェビキ・グループが、秘密使節団と共にペルシャ北西部に現れた。ロシア社会民主労働党の特使の主要活動は、イラン領内で行われたが、1910年初め、彼らは、イラク北東部のクルド人と接触を確立した。革命後、オルジョニキゼの部下の一部は、ペルシャに戻った。1920年夏、イラン左翼とイラクのシーア派の助けにより、彼らは、アバダンの英国の採油所に対して一連の破壊工作を試みた。しかしながら、SISは、適時のその計画を見破り、同じシーア派の手により、ソビエトのエージェントを片付けた。

 数年後、イラク南東部に、コミンテルン非合法・技術課長ヨセフ・ピャニツキー使者が侵入した。彼らの影響の下、1924年、バスラにおいて、最初のマルクス・サークルが生まれた。1年後、OGPU外国課近東支局長エフロイム・ゴリデンシュタインは、イラクにおける自官庁の業務の優先方面を要約した。ここにエージェント網を創設するために、彼は、レバノンのマルクス主義者、並びにペルシャの聖職者階級及び商人の関係を利用するように勧告した。1927〜29年、OGPUは、その方面において、組織的業務に着手した。駐ケルマンシャフ(イラン西部、イラク国境近隣)領事館職員、何よりも、OGPU外国課将校ミハイル・アッラフヴェルドフが特別の成功を収めた。1930年、彼の同僚アブラム・エインゴルンが、準備された使節団と共にイラクを訪問し、その後、ここに初めて、ソビエト諜報部の非公然支局が創設された。SISの情報によれば、30年代、OGPUは、「イラク・シーア派執行委員会」に支援を提供し、並びに1935〜37年のシーア派の騒擾に関係を有していた。

 30年代末〜40年代初め、ソ連特務機関は、在イラク・クルド人のナクシュバンド族の族長の弟、ムスタファ・バルザニと接触を確立した。. 1946年春、彼は、イランのクルド自治州の指導者の1人となり、その廃止後、2千人の支持者と共にソビエト連邦に去った。1958年、彼らは祖国に戻り、KGBの支援の下、バグダッドの親英政権の打倒に参加した。しかしながら、間もなく、モスクワは、新政権に失望し、1961年、KGBの援助により、イラクにおいて、クルド人の蜂起が始まった。反乱軍との連絡将校には、アレクサンドル・キセレフが任命され、40tの武器及び弾薬の運搬を担当した。彼の言葉によれば、クルド人運動の支援は、イラクにおける英国人の立場を破壊する目的を追求した。特にこの理由により、SISは、当時、キセレフの暗殺を組織した。1968年夏のバース党の権力掌握と共に、クルド人運動とソビエト諜報部の関係は、顕著に弱体化した。元駐イラクKGB副支局長レフ・バウシンの証言によれば、「モスクワとバグダッド間の協力拡大につれ、ムスタファ・バルザニの支援規模が縮小された」。1972年、両国間で、特務機関領域における協力に関する協定が署名された。KGB第1総局第20課の連絡将校がイラクに到着した。ソビエト人教官は、総合情報庁と総合保安庁の再編において、決定的な役割を演じた。これら機関の多くの将校は、ソ連で教育を受けた。GRUと軍事情報部間にも、関係が樹立された。ちなみに、軍事情報部の特殊部隊「ク-ウアト999」の一部将校は、モスクワ州のジェルジンスキー名称KGB特殊任務師団軍部隊3272の基地で訓練を受けた。1972年の条約に従い、イラク人は、モスクワが外交関係を有していなかった国において、ソビエト特務機関に援助を提供した。

 KGBとの関係発展において、特別な役割を演じたのは、総合情報庁創設者の1人、1979〜90年にイラク内務省を指揮したサードゥン・シャケルである。彼は、KGB議長アンドロポフ、副議長チェブリコフ及び対外政策問題担当書記長補佐官アレクサンドロフ-アゲントフと関係を維持した。シャケルの言葉によれば、ソビエト諜報部と総合情報庁の関係は、他の友好国の特務機関よりも、はるかに強固だった。1977年までに、イラクは、ソ連があらゆる諜報活動を停止した唯一の非共産国となった。しかしながら、1979年春のイラクの共産主義者に対する弾圧開始と共に、これは再開された。ソビエト筋によれば、当時、特務機関領域における二国間協力は顕著に悪化した。イラン・イラク戦争の開始も、非常に否定的に影響した。しかしながら、シャケルは、これらの情報を否定した。彼の言葉によれば、「国家間レベルにおける紛糾は、「アル-ムハバラート・アル-アンマ」(総合情報庁)とKGBの協力に全く影響しなかった」。

 プリマコフのSVR長官任命と共に、諜報領域におけるロシア・イラク関係強化の第2期が始まった。90年代、イラク特務機関は、カフカーズのムジャヒディーンを支援するトルコとアラビアの王国のイスラム教及びバーブ教組織の無力化において、ロシアに著しい援助を提供した。イラク諜報部のおかげで、ロシア領内での一連の外国人戦闘員の活動が阻止された。特にこれは、チェチェンで戦っていたクルド人イスラム教グループ(「アンサル・アル-イスラム」、「タウヒード」、「コマレ・イスラミ」等)の活動分子に関係した。最も知られているのは、2000年3月のハッタブの補佐官、モハメッド・アブド・アル-ウアハブの逮捕である。

 1999年9月、ウラジーミル・ルシャイロの招待により、イラク内務相モハマッド・サイド・アス-サハフがモスクワを訪問した。彼は、同僚だけではなく、他の戦力官庁代表とも交渉を行った。アス-サハフの言葉によれば、「特に、我が領域における経験の交換、専門家の各種共同訓練の実施について話し合われた」。

■プロパガンダと思惑

 今年1月、Washington Timesは、アメリカ諜報筋を引用して、SVRと総合情報庁の協力継続について報道した。その関係は、ソビエト時代から維持されていたとも指摘された。今、ワシントンは、モスクワの助けにより、バグダッドが、米国が国連に提供した秘密情報を入手し得るとの懸念を表明した。

 過去3ヶ月間に渡って、ロシアのマスコミには、イラクでのGRU及びSVRの活性化に関する記事が現れ始めた。米英の作戦開始と共に、これらは、顕著に頻繁になった。その1つでは、「SVRの2個戦力支援グループ「ザスローン」」のバグダッド出現と、「もう1つのグループのイランのイラクと国境を接する地区への輸送」について報道された。他の記事によれば、「GRUは、反イラク連合軍に対して独自の戦争を行っており、その上、軍事行動地域には、インターネットが選定された」。もう1つの記事の著者は、「イラク特務機関の公文書及びエージェント・ファイルのSVRへの移管とモスクワへの発送」の可能性について明らかにした。

 専門家は、そのようなセンセーションに非常に懐疑的に接している。加えて、対外情報庁には、「ザスローン」という名称の部隊はない。その外、ある情報によれば、イラク領内にロシア特殊任務部隊が出現したという全ての噂は、駐バグダッド・ロシア大使館に数人の武装兵が現れたという1つの事実に基づいている。SVR報道局代表は、3月31日、言及された記事に対して、「我々は、若干のジャーナリストの空想にコメントしない」と表明した。

 何れにせよ、近い将来、ロシア特務機関は、どう見ても、戦後イラクにおけるロシアの利益の唯一の保証人と再びなるだろう。それなしでは簡単には済まず、このことは、ロシア諜報部のイラク史がこれほど雄弁に証明している。

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最終更新日:2004/03/15

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