不測の始まり

独立軍事評論、2002年3月28日

 イラクに対する米英連合国の戦争は、 多数の予測に反して、3月20日0535、以前から予期されていたが、決して強力ではない精密ミサイル爆撃打撃から始まった。この全ては、事前に計画された作戦の初期段階における戦力及び手段の大規模使用という戦争術の基本原則 と少し食い違っている。

3月26日現在の紛争地帯の情

3月26日現在の紛争地帯の情況

■ワシントンは急いだ。

 ホワイトハウスとペンタゴンのそのような一歩のもっともらしい説明は、「ワシントン・ポスト」紙が与えている。アメリカ人ジャーナリストの説は、以下のように見ている。

 CIAには、フセインに対する「照準」があった。3月19日1600頃、中央情報局長官ジョージ・テネットは、ブッシュ大統領に 「想像できない正に夢のようなニュース」を伝えた。湾岸戦争において、CIAにはサダム・フセイン がこの瞬間いる場所に関する情報があると、テネットは請け負った。フセインと「イラク指導部上層部」、つまり、普通絶対に会えない人々が、アメリカ特務機関の「傘」の下に入ったというのである。彼らは、バグダッド南部の人里離れた民家で軍事会議を行っており、所有する情報によれば、そこに数時間滞在するはずだった。 正に予測できない成功を期待することができた。ブッシュ側近の誰かが、これが今後決して現れない以上、これを「逃すことができない標的」と直ちに呼んだ。

 国内各所に複数の宮殿を所有するイラク指導者は、危険時、そのどこにも現れなかった。彼は、自国内の「難民」であり、官邸間を常時かつ予告なしに移動していた。サダムの所在が1度でも見つかるいかなる保証もないと、テネットは語った。軍事的に、ブッシュは、 最小限の危険を冒した。作戦には、約40発のミサイルと数十機の飛行機が必要だった。しかし、 士気の観点から、かつて再三打撃から逃れてもいた敵の「捕捉」の試みの失敗は、不吉な前兆、権威と戦意にとって計り知れない喪失としてみなされ得た。

 それにも拘らず、テネットの報告後間もなく、ブッシュと彼の国家安全保障担当補佐官は、中央司令部が数ヶ月間綿密に検討していた軍事行動計画を破棄した。円卓会議には、チェイニー副大統領、コリン・パウエル国務長官、ドナルド・ラムズフェルド国防長官、国家安全保障担当補佐官コンドリザ・ライス 及び軍指導部上層部が出席した。

 1830、ブッシュが攻撃命令に署名したとき、文書は、性急な即興的要素を含んだ。「ショックと動揺」作戦における最初の打撃は、イラク政府 の首を一挙に切り落とすことを期待して、バグダッド の全く平凡ではない家屋の屋根と壁を貫通し、内部深くに浸透するはずだった。紅海とペルシャ湾の8隻の軍艦は、ラングレーのCIA本部庁舎からその座標が伝達された目標に「トマホーク」を再プログラミングした。カタールのエル-ウデイド航空基地からは、各機2,000lb爆弾2発を搭載したF-117A戦闘機2機が離陸した。パイロットは、通常の詳細な飛行前指示の代わりに、任務指示のデータを大急ぎで取り出して、操縦桿を握った。作戦全体は、衛星誘導システムにより統制された。「Joint Direct Attack Munitions」爆弾は、 石と鋼鉄の複数の層を貫通する特殊なものだった。

 ブッシュが命令下達してから3時間後、0535、 数回の集中的な爆発がバグダッド南部を揺さぶった。イラクのテレビは、サダム・フセインが健在で、間もなく国民にアピールを行うと直ちに報道した。更に3時間後、イラク大統領は、表明通り、生放送で画面に現れた。この放送の最初の緊急紹介において、アメリカのアナリストは、これはフセインではあり得ないと、映像の真偽に疑いを表明した。中継ではなく、テープの放映が行われたことは排除できない。サダムには数人のダブルが存在し、テレビの人物がかけた眼鏡が独裁者が普段かけているものとは異なっていたことが全員に明らかになった。 そして、出演者が最新の事件について語ったにも拘らず、彼は、具体的なミサイル爆撃打撃については何も語らなかった。他方、専門家は、演説者の修辞術がフセインが 普通語っているものと非常に似ていることを認めた。

■最初の打撃

 戦争直前のイラク危機地帯における出来事は、以下のように展開した。3月19日夜、ペルシャ湾地帯の米英海軍艦艇群の地域統制・通信システムは、戦時動作モードに移行した。この後間もなく、米英の航空隊は、イラクの飛行禁止地帯において、イラク南部及び西部の個別目標に対する選別的打撃を開始した。夜半近く、アメリカ人は、イラク南部国境近くの戦闘航空隊の飛行管制のための 連続的レーダー場の創出のために、空中管制を強化した。3月21日零時代、ディエゴ・ガルシア航空基地で大騒ぎが始まり、ペンタゴンの緊急指示に従い、アメリカの飛行士は、B-52H戦略爆撃機8機の戦闘飛行準備に着手した。

 3月20日0535、バグダッドにおいて、航空及び海上撃破手段の爆発が響き、戦争が始まった。最初の打撃では、40発以下の海上及び空中発射型巡航ミサイルと、30機以下の艦載及び戦術機が使用された。この外、午前7時以降、バグダッド空襲には、2機のステルス戦略爆撃機が投入された(ディエゴ・ガルシア航空基地から)。

 巡航ミサイルが国防省及びイラク軍参謀本部の建物群(バグダッド中央部に位置)、政府統制所及びサダム・フセイン大統領の官邸(首都南部郊外)、空軍と防空軍の本部及び指揮所(バグダッド南東部)を撃破したという情報が存在する。 特にイラクの首都のこの地区からは、他所よりも頻繁に、1tもの貫徹型弾頭部の爆発音が轟いている。

 イラク防空軍は、アメリカ航空隊の最初の空襲への効果的な抵抗を組織することができなかった。3月20日 のバグダッドの夜明け前の空を刺すような小口径高射砲からの多数の曳光弾は、実際のところ、米国の巡航ミサイルと軍用機にとって危険ではなかった。戦略及び戦術航空隊の飛行地帯におけるイラクの独裁者の少数の戦闘能力のある対空ミサイル大隊は、 即座に撃破されるか、圧倒的な出力の妨害により「失明」した。

■地上作戦

 多くの観察者は、比較的小戦力で実施された最初のイラク爆撃を、戦闘行動における最新の成果と、大規模ミサイル航空打撃の実践のペンタゴンの事実上の否定 として性急に評した。しかしながら、新たな湾岸戦争の続く日々は、そのような明らかに性急な結論の破綻を示した。米英の航空攻撃の規模は、 全く現実的かつ妥当な予測すらも超えた。そして実際、150隻の水上艦艇及び潜水艦から成る艦隊、軍用機1,000機及び兵員26万人が、限定規模の軍事行動では全くなく集結している。

 最初の航空打撃のほぼ直後、米英連合軍の地上部隊が戦闘に投入された。これほど迅速な作戦の地上段階も、多くのアナリストに予測されていなかった。これはもう少し後になると考えられていた。 どう見ても、これは、イラク陸軍が1991年当時には既に程遠く、イラク・クウェート国境の強化陣地 が第1次湾岸戦争式の「サダム線」の哀れな類似物であることにより説明される。当時、サウジアラビアとクウェートの国境全体に沿って、深さ3.5mの対戦車壕が築城され、イラク兵は、約3千kmの塹壕と交通壕を築城し、兵員用の掩蔽壕が1万ヶ所以上設備された。今日、既に400km前進したアメリカの地上部隊は、場所によってはかなり頑強であったが、拠点抵抗にしか遭遇していない。特に、イラク南部、バスラ市地区での比較的散発的な武装衝突の後、第3軍団第51自動車化歩兵師団の一部部隊が降伏し、米英海兵隊部隊に投降した。

 しかしながら、最初の打撃後に我に返ったサダム・フセインの部隊が米英部隊と戦っているのは、ますます明らかになりつつある。後に、彼らは、 連合国が破壊を試みることができない効果的な分散統制システムを創設した。イラク軍は、形成された情勢下において、良く強化された居住区で防御し、開闊地での連合軍との戦闘に巻き込まれないという唯一信頼できる戦術を選んだ。一方、 イラク兵が強制し、鋭敏な損害を与え始めた最近の戦闘においても、連合軍は、そのような事態の展開に備えていなかった。フセインの軍による都市の拠点防御がアメリカ人にとって完全な奇襲となった印象が生まれている。

 しかしながら、航空打撃の規模と威力は印象的である。3月21日から22日の夜、イラクは、特に集中的な空襲に曝された。3月22日午前4時までだけで、国内の軍事施設に対して、12波のミサイル航空打撃が実施された。ディエゴ・ガルシア環礁とオマーンのマルカズ-タマリド航空基地から行動する20機の戦略爆撃機には、英国のフェルフォード飛行場とホワイトマン航空基地(米本土、ミズーリー州) から機体が集められて合流した。後者からは、ディエゴ・ガルシアにおけるB-2Aに適した格納庫の数が、B-2A全機には明らかに不十分である以上、B-2A「スピリット」ステルス爆撃機がイラクに飛行している。インド洋上の航空基地には、計6機が存在する。「スピリット」のホワイトマン航空機からの飛行時間は30時間以上で、B-52のフェルフォードからの飛行時間は20時間以上である。

 「戦略機」の外、打撃には、300機までの艦載機及び戦術機が参加した。海上及び空中発射型巡航ミサイルは、一晩で、1991年の湾岸戦争全体の3倍以上発射された。

 3月21日から23日の間、英海兵隊は、ファオ半島を奪取し、そこに存在する石油ターミナルを支配下に置いた。3月21日正午、CENTCOM(中央司令部)の情報によれば、ウンム-カスル市が陥落した。連合軍は、イラク西部の2ヶ所の飛行場を奪取し、南部の中心地バスラを包囲し、バスラ−バグダッド道の戦略的に重要な区域を確保した。ユーフラテス川に架かる無傷の橋が、彼らの手に渡った。北方からイラク領内 (バマルニ市までを含む。)には、トルコ軍第2野戦軍の最初の部隊が進入した。

■損害と失望

 今回の湾岸戦争の前線からは、非常に矛盾する情報が入っている。1つだけ明らかなのは、イラクでの武装対決が、ペンタゴンの当初の計画から非常にかけ離れた筋書きで展開していることである。対イラク連合軍は、鋭敏な損害を受け始めている。

 つまり、イラク軍司令部の報道によれば、エン-ナシリア市地区での戦闘において、米英兵士25人が戦死した。報告では、敵軍人の多数が負傷するか又は捕虜になったとも指摘された。米軍中央司令部本部代表は、エン-ナシリア郊外での戦闘で10人以上が戦死したことを認めた。12人のアメリカ兵が行方不明になったと考えられている。最初のアメリカ将兵がサダム・フセインの手に落ちたことも確認された。 バグダッドは、国営テレビで彼らを見せることができた。

 周知の通り、戦争では損害なしでは済まない。武装対決初期における米英側の数十人の戦死者、負傷者及び捕虜が、新たな湾岸戦争にとって多いのか、少ないのかという疑問が生じている。恐らく、そうではないだろう。若干の数値を想起させる。一晩で、グローズヌイ(1994年12月31日から1995年1月1日まで)では、公式情報によれば、273人のロシア軍人が戦死した。大祖国戦争時、赤軍の一日平均の損害は、死傷者2万人以上に達した。 これを背景に、米英連合国の損失は、一見したところでは無視できる二義的な規模である。

 しかしながら、米英軍にとって、これは、途方もなく甚大である。これらの国の軍は、過去十年間(1991年の湾岸戦争時から )、そのような損失を知らなかった。米国の大統領と国防長官、英国首相が極めて意気消沈し、連合軍の最初の損害の知らせに打ちひしがれたのが見て取れる。

 巡航ミサイルとレーザー誘導爆弾だけでは都市を奪取できないことは、ウンム-カスル、バスラ及びエン-ナシリアを巡る最近の戦闘が明らかな証明である。ちなみに、連合司令部の報告に反して、ウンム-カスルは、3月25日、米英の支配下に完全に入った。その上、同司令部の報道によれば、 市のある場所では小競り合いと交戦が継続し、イラク軍の残存部隊か、事前に準備された破壊工作・テロ地下組織が行動している。

 更により厳しい試練が、バスラ及びバグダッドは言うに及ばず、他の都市でも連合国を待ち受けている。サダム・フセイン体制を粉砕するためには、米英連合国兵士の甚大な損害が確実に要求される。

■冷戦のビート

 それにも拘らず、ロシアの軍事・政治指導部は、最近頻繁になったロシア連邦南部国境に沿ったU-2S戦略偵察機の飛行を非常に警戒している。2月27日から3月22日の間、同機は、ロシア国境直近のグルジア領空に3度出現した(2003年2月27日、2003年3月7日及び2003年3月22日 )。U-2の通常の経路は、アクロチリ航空基地(キプロス島)−エーゲ海−黒海−グルジア−航空基地への帰還である。

 偵察機の飛行は、通常、グルジアの西部と東部の国境間の上空警戒方法として実施されていた。U-2は、北方から南方にかけて領空を調べるかのように順番に移動した。グルジア領空に、飛行機は3時間以上存在した。ロシア連邦国境(北オセチア地区)への最大接近は、わずか20km超だった。

 偵察機の随伴のために、第4航空・防空軍の迎撃戦闘機が離陸した。一見したところ、U-2のロシア国境近隣の飛行とイラクでの戦争に直接の関係はないが、軍人とクレムリンは、 非常に懸念している。ロシア国境のそのような飛行を「友好的」とは決して言えない。

 ロシア企業による軍用製品のイラク納入が行われたかのようなアメリカ国務省による報道の流布は、ロシアと米国間のパートナー関係を強化していない。ロシア大統領ウラジーミル・プーチンは、米大統領ジョージ・ブッシュとの電話会談中、 「工夫してこのテーマに触れた」。会談は、かなり高いトーンで行われたと指摘されている。ある者は、ロシア国家元首の表明を「怒りの非難」と性急に評した。ウラジーミル・プーチンは、 「両国間の関係に損害しか与えない 証拠のない、公然たる主張」について話したと指摘した。若干の専門家は、形成されつつある状況が冷戦の暗い時代を想起し始めていると考える傾向にある。

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最終更新日:2004/03/15

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