シャロンの特別チーム

ルースキー・ジュルナール、2003年3月3日

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 イラクでのアメリカの作戦直前、イスラエル指導部は、その対外政策活動を顕著に活発化させた。そこで重要な役割を演じているのは、外務省の正職員ではなく、首相の私的代理人、並びに特務機関の元及び現役職員である。例外は、外務省局長イアフ・ビランと外務相顧問ウージー・アラドだけである。しかしながら、後者は、正規の外交官層に属さない。1997年まで、彼は、22年間、イスラエル対外諜報部で勤務し、一時、その研究局を指揮すらした。

 アリエル・シャロンの人材には、彼の特別外交委任事項を遂行する相当数の私的代理人が存在する。それには、特に、エフライム・ハ-レビ、ドフ・ワイズグラス、アリエル・ガンガル、ウリ・ダン及びウリ・ルブラニが属する。

 イスラエルの企業家(テルアビブ出身)、アリエル・ガンガルは、首相の完全な信任を享受し、既に20年以上、彼と関係を維持している。1966年、イスラエル空軍での勤務を終え、彼は、ニューヨークに移民した。そこで、ガンガルは、シャロンと密接に関係し、彼の選挙キャンペーンに出資したユダヤ人企業家メシュラム・リクリスと共同で、商業活動に従事した。

 1981年、国防相のポストを占めていたシャロンは、自分の官庁の局長となり、ユダヤ人国家の軍産複合体を担当することをガンガルに提案した。しかしながら、この発議は、イスラエルのエスタブリッシュメントとマスコミ側からの激しい非難のため、結局実現しなかった。

 1983年、ガンガルは、ニューヨークに戻り、自分の会社「Holding Capital Group」を設立した。

 シャロンが外務相のポストを占めた1998年〜1999年初め、ガンガルは、初めて、米国とイスラエル間の非公式連絡ルートとなった。このことは、シリア及びレバノンとユダヤ人国家の秘密交渉時 、特に実感された。2001年初めから、ガンガルは、アメリカ・イスラエルの対話と協力の維持を保障した重要人物の1人である。2002年2月のシャロンの米国訪問中、彼は、両国首脳の秘密交渉に参加すらした。特に彼を通して、イスラエル首相は、ディック・チェイニー及びコンドリザ・ライスと常時連絡を維持している。

 ウリ・ダンは、イスラエルのジャーナリスト界の長老、シャロンの側近の1人と考えられている。40年以上の親密な友人関係が彼らを結び付けている。一定の場合、ダンは、イスラエル首相のより秘密を要する委任事項を遂行する。つまり、例えば、今年2月15日、アルマトゥイにおいて、彼は、アフガン政府閣僚かつカルザイの国際問題担当顧問ヤヒエ・モハマッド・マルフィと秘密会見を行った。

 ウリ・ルブラニは、70年代から、レバノン及びイラン問題に関するイスラエル最良の専門家の1人と考えられている。80年代、彼は、イスラエルの駐レバノン各種国家機構の政策調整官職を占め、並びに首相顧問であった。どのイスラエル特務機関の職員でもないルブラニは、20年以上、ユダヤ人国家の秘密外交において 、重要な役割を演じている。アリエル・シャロンの官房、「モサド」、総合保安庁(シャバク)及び軍事情報部(アマン)は、しばしば、彼の諮問又は仲介サービスに頼っている。90年代から、ルブラニは、ペルシャ湾の石油王国とイスラエルの秘密接触に活発に参加している。

 シャロンの委任による外交任務は、若干の場合、彼の息子のオムリ、ダニエル・アヤロン、マジャリ・ウアハバ、シャブタイ・シャヴィト及びエイタン・ベン-ツル も遂行している。

 過去駐国連イスラエル副大使職を占めていた職業外交官ダニエル・アヤロンは、ベンジャミン・ネタニヤフ政権時、首相官房の勤務に異動した。そこで、彼は、その対外政策課副課長となった。エフド・バラクの権力掌握と共に、アヤロンは、自分の職務を保持した。2001年2月の選挙におけるアリエル・シャロンの勝利後、彼は、首相官房対外政策課長を指揮した。昨年夏、ダニ・アヤロンは、駐ワシントン・イスラエル大使に任命された。

 予備役中佐、東洋学者であるマジャリ・ウアハバは、ドルーズ人最大氏族の1つの代表である。80年代中盤、彼は、レバノンにおけるイスラエルの安全地帯西部区域を指揮した。同期間、ウアハバは、イツハク・ラビン及びアリエル・シャロンと個人的関係を確立した。1996年、彼は、後者(当時、インフラ相)のアラブ及びムスリム諸国関係担当補佐官となった。当期間、ウアハバは、ペルシャ湾の石油王国、パレスチナ暫定自治政府、ヨルダン、並びにマグリブ及び東南アジア諸国と、自分のパトロンの接触を管理した。1998年、シャロンが外務相のポストを手に入れた以上、彼の活動は、顕著に増大した。

 1999年の選挙におけるエフド・バラクの勝利と共に、ウアハバは、国家勤務から去った。その後間もなく、彼は、民間商業会社「Peace Projects」の 重役会議の構成員に入った。同時に、ウアハバは、アリエル・シャロンと密接な関係を維持した。2000年末、彼は、ムスリム世界における非公式代表として、活発な外交活動を再開した。翌年2月、マジャリ・ウアハバは、サダム・フセイン側近の1人と秘密交渉を行った。その席では、イスラエルとイラク間の外交関係樹立の可能性について、話し合われた。

 2001年春から2002年秋まで、ウアハバは、地域協力省の局長職を占めた。局長として、彼は、パレスチナ暫定自治政府及びヨルダン指導部と関係を維持した。

 卓越した東洋・アラビア学者、シャブタイ・シャヴィトは、32年間、イスラエル対外諜報部で勤務し、その内、1989年から1996年までの7年間は、その長官だった。イラク方面は、「モサド」長官在任時、シャヴィトの活動における優先方面の1つだった。彼の個人的指導の下、イスラエル諜報部は、バグダッドの軍事・戦略プログラムの無力化のために、欧州及び近東において一連の作戦を行った。彼は、1991〜93年、「モサド」とイラク北部のクルド人集団の秘密関係の復活を発議した。

 自分の職務上の昇進の終結により、シャヴィトは、医療保険会社「マッカビ」の社長職を占めた。2000年、彼は、「モサド」 勤務時の元部下、ヨシ・メイマンがオーナーである国際会社「メルハフ」の重役会議の構成員に入った。彼に属する会社は、主として、エネルギー・プロジェクト(何よりも、ガス供給領域)に従事し、CIS諸国領土、特に中央アジア、部分的にザカフカーズにおいて、広範囲な活動を行っている。

 90年代初めから、シャヴィトは、再三、アラブ諸国、何よりもエジプトへのイスラエル指導者の私的使節となった。今に至るまで、彼は、近東特務機関の一連の元及び現役幹部と接触を維持している。シャヴィトは、伝統的に、エジプト総合情報庁長官オマル・スレイマン・アル-リファイと、最も密接な関係を結んでいる。過去2年間、元「モサド」長官は、再三、特に、2001年2月の選挙でのシャロンの勝利直後にカイロに滞在していた。ちなみに、同訪問では、更に2人のイスラエル首相の信任者、メイル・ダガン(昨年秋から、「モサド」長官)と言及したマジャリ・ウアハバが、彼に随行していた。

 並行して、シャブタイ・シャヴィトは、国際テロリズムと地域安全保障問題の研究を専門とするゲルツリアの部門間研究センター(IRC)委員会議長である。ちなみに、IRCは、イスラエル・ロシアの戦略的対話の主要組織者かつ参加者の1つである。ロシア側からは、実験創作センター(ETTs)が、類似した役割を演じている。

 その外、昨年9月、シャブタイ・シャヴィトは、ニューヨーク市附属テロ対策特別顧問に任命された。元CIA長官ジェイムス・ウルジーと共同で、彼は、9月11日型 非常状況の場合における戦略立案を担当する作業部会を指導している。

 エイタン・ベン-ツルは、最高位のイスラエルの外交官の1人と考えられている。権威あるLondon School of Economicsで学士号を得た彼は、1960年代からほぼ30年間、外務省に勤務している。これほど長い外交経歴に渡って、ベン-ツルは、東欧、北アフリカ及びアメリカ大陸問題に従事した。90年代末、彼は、外務省の局長だった。2000年末〜2001年初め、ベン-ツルは、シャロンの定員外の対外政策問題担当顧問だった。同期間、彼は、国外で自分のパトロンの一連の秘密委任事項を遂行した。 その1つだけが、広く知られている。2001年1月にオーストリア領土で行われたアラファトの財政顧問ムハマッド・ラシドとの秘密交渉へのベン・ツルの参加である。今に至るまで、元イスラエル外務省局長は、近東及び北アフリカ、特にヨルダン及びモロッコの多くの国家及び政治活動家と関係を維持している。この際、彼は、シャロンの官房長ドフ・ワイスグラスと非常に密接な関係を維持している。

 列挙された全人物の外、アリエル・シャロンの舞台裏の対外政策活動に活発に参加しているのは、イスラエルの2つの主要特務機関、シャバクと「モサド」の長官である。前者は、2000年5月から、アフラーム・ジフテルが指揮している。その活動の枠内において、彼は、米国、西欧及び近東の数ヶ国の同僚との関係を維持している。 ジフテルは、ヨルダン特務機関の指導者と、特に密接な関係を結んでいる。その外、彼は、安全保障問題に関するパレスチナ暫定自治政府代表との交渉に再三参加し、並びにエジプト諜報部のボスと接触している。

 シベリア生まれのメイル・ダガンは、昨年秋に「モサド」を指揮した。ちなみに、彼は、東洋学の学位保有者でもある。ダガンは、アリエル・シャロンの子分と考えられ、首相の絶対的な信任を得ている。彼らの関係の始まりは、70年代に遡る。当時、シャロンは、南部軍管区を指揮し、ダガンは、彼の命令により、対テロ特殊部隊「リモン」を創設し、指揮した。事後、陸軍の部隊における彼らの道は、再三交差した。それ故、2000年12月に「リクード」党からの首相候補者にシャロンが選出されると共に、彼の選挙本部長に特にダガンがなったのは驚くべきことではない。翌年初めに政府を率いたシャロンは、元同僚を定員外の自分の安全保障問題担当顧問に任命した。この資格で、ダガンは、パレスチナ暫定自治政府最高指導部の財政活動の調査に従事し、並びに国外で自分のボスの秘密委任事項を遂行した。

  「モサド」長官のポストにおいて、メイル・ダガンは、対外政策よりも、格別に作戦問題に大きな注意を払っているが、それでもやはり、若干の国外の同僚と接触を維持している。特にこれは、ハシム王国の主要特務機関の指導者、総合情報庁長官サード・アル-ヒル及び総合保安庁長官タフシン・シュルドム に関係している。イラク方面が「モサド」長官と彼らの協力における優先方面の1つであることは当然である。

 列挙されたシャロンの側近の内、アメリカ行政府との接触には、主として、エフライム・ハ-レビ、ドフ・ワイズグラス、アリエル・ガンガル及びダニエル・アヤロン が参加する。

 ロシア方面では、最近、エフライム・ハ-レビと、イスラエル・ロシアのロシア語マスコミ問題担当首相顧問ユリア・ブラヤが最も活発に姿を現した。特に彼女は、秋のシャロンのモスクワ訪問の準備を担当し、最近、政府の長の私的委任により滞在していたカザフスタンから帰国した。

 イラクでの作戦と関連した問題は、やはり、エフライム・ハ-レビが監督している。各種期間、シャロンの任務により、イラク問題には、マジャリ・ウアハバ、ドフ・ワイズグラス、ウリ・ルブラニ及びシャブタイ・シャヴィトも従事した。

 パレスチナ方面では、通常、エフライム・ハ-レビ、ドフ・ワイズグラス、アフラーム・ジフテル、オムリ・シャロン、いくつかの場合、マジャリ・ウアハも働いている。

 このチーム全体は、イスラエルの秘密外交の「第1梯隊」であり、その緊要方面において決定的な役割を演じている。

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最終更新日:2004/04/04

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