■情報共同体の機構
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地方行政問題・国家保安省 |
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国家保安情報庁(National Security Intelligence Service − NSIS):長官ウィルソン・ボイネット(Boinet)退役准将 |
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犯罪捜査部(Criminal Investigation Department − CID) |
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一般勤務部隊(General Services Unit − GSU) |
植民地時代、ケニアの主要特務機関は、特殊部としてより知られる保安情報部(DSI)だった。その機能には、諜報活動も、国内平穏の保障も含まれた。
1998年、ケニア議会は、新しい特務機関、国家保安情報庁(National Security Intelligence Service − NSIS)の創設を可決した。
NSISには、7局が創設された。
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行政局(Administration):局長Joseph Murei Mangira |
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情報技術局(Information technology):局長Kibwon Sergon |
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国内情報局(Internal intelligence):局長Shukri Baramadi |
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対外情報局(External intelligence):局長Petkay Shen Miriti |
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経済問題局(Economic affairs):局長Fidel Mumia |
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作戦局(Operations):局長Stephen Kimani Muhu |
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国家情報アカデミー(National Intelligence Academy):Alloys Meltus Okindah |
1999年5月、当時の大統領ダニエル・アラプ・モイは、NSIS長官にウィルソン・ボイネット退役准将を任命した。NSIS長官として、ボイネットは、国家安全保障問題担当大統領主任顧問だった。
NSISの外、ケニアの特務機関システムは、地方行政問題・国家保安省、犯罪捜査部(CID)、国家警察及び行政警察も含む。その外、更に一般勤務部隊(GSU)に統合された警察附属の武装部隊が存在する。その中から、700人を数える大統領の身辺警護が編成された。
新しい特務機関の創設が国を離れたケニア反体制派に直ちに実感されたことは興味深い。1999年春、スウェーデン政府に、活動家がNSISストックホルム支部側からの尾行を訴えたケニア青年運動KYMSの現地支部からの照会状が送付された。彼らの情報によれば、1999年3月、駐ストックホルム・ケニア大使館職員フランシス・ムヴォンゴは、KYMS運動の指導者、現地支部長ギチュク・ヴァ・ムイラニを徴募しようと試みた。
それにも拘らず、最近、人権擁護家は、ケニア人に余りクレームを付けていない。2003年1月、29人の被拘束者の死後、ケニアは、その収容条件が最良を期待できない刑務所の改革を始め、世論に完全に応じた。
■英諜報部のプレゼンス
1999年に任命された現英SIS長官リチャード・ディアラフは、1968年に派遣された駐ケニアMI-6支局で自分の経歴を始めた。彼は、英高等弁務官(British
High
Commission)の三等、後に二等書記官として、外交カバーの下でそこで働いた。もう1人の英秘密機関の高官、現合同情報委員会議長ジョン・スカーレットも、ケニア支局を経過した。ちなみに、彼は、モスクワで2度働き、結局、1994年に追放された。
数年前にインターネット上に公表されたMI-6のエージェントのリストに従えば、少なくとも5人の英国エージェントが、1970〜1975年、ベルグラード、ハバナ、モスクワ、オスロ、パリ及びプラハのような首都への任命を得る前に、ナイロビで自分の経歴を始めた。それにも拘らず、このことは、ケニアが長期間全東アフリカにおける英諜報部の主要基地だったことを考慮すれば、驚くべきことではない。
70年代、ケニア政府閣僚に入っていた唯一の白人は、農場主としてアフリカに住み着いた元英空軍将校ブリュス・マッケンジーだった。実際には、彼は、MI-6の支局員だった。多くの者は、彼の経歴の最後が屈辱的でなければ、第2のアラビアのローレンスの名誉を完全に要求できたと考えている。
1976年、パレスチナ人テロリストが、250人の乗客を乗せた「エール・フランス」社のエアバスをハイジャックし、現地の独裁者イディ・アミンの承認と共に、ケニアの隣国ウガンダのエンテベに着陸させた。特にマッケンジーは、作戦準備のためのイスラエル特殊部隊への基地提供について、ケニア人と合意することができた。後に、作戦は、イスラエル人が事実上損害なしに人質全員を解放できたため、「エンテベの奇跡」として有名になった。特殊部隊員の中では、ベンヤミン・ネタニヤフの兄、ヨナタン・ネタニヤフ中佐だけが殉職した。
それにも拘らず、この事件の5年前、1971年に後のアフリカで最も残虐独裁者、イディ・アミンがウガンダの権力を掌握したとき、特にマッケンジーは、アミンを支援すべきだと英政府を説得した。「・・・このような武器販売市場を見逃すべきではない」。当時、アミンは、まだ英国人及びイスラエル人と争っていなかった。
運命の皮肉により、5年後、マッケンジーは、イディ・アミンの直接命令により殺害された。MI-6のエージェント兼大臣は、イスラエル人のエンテベ襲撃直後、アミンとの関係を修復するために、ケニア貿易代表部の構成下でウガンダに到着した。不幸なことに、彼は、人質解放におけるマッケンジーの役割について良く知っていた。会見の最後に、独裁者は、ウガンダの伝統的な友好の贈り物、羊の頭を英国人に贈った。マッケンジーの飛行機がナイロビに着陸した後、頭が爆発した。それには、元CIA職員、爆破の専門家フランク・ターピルが製作した爆破装置が仕掛けれれていた。アメリカ諜報部退職後、ターピルは、キューバに逃亡した後、リビア人及びパレスチナ人、後にアミンに自分のサービスを売った。
今日、ナイロビにおける英諜報部のプレゼンスは、ますます著しくなった。今年3月、ソマリア領内のテロ・ネットワーク「アル-カイダ」の追跡のために、英国の偵察機2機、並びに140人の軍事専門家がケニアに到着した。ちなみに、英国防省の報道によれば、モンバサ空港への設備と専門家の輸送は、ロシアの輸送機「アントノフ」の助けで行われた。英偵察機の助けによる「アル-カイダ」戦闘員に対する監視の拡大は、米国の要請により実施された。2001年12月、英国防相ジェフ・フーンは、ナイロビを訪問し、英国の軍事プレゼンスの拡大に対するケニア当局の許可を得た。
■橋頭堡
90年代末は、他国特務機関の内政干渉の新たな波をケニアにもたらした。この国は、余りに好都合に位置している。70年代と同様、今日、その領内には、外国の偵察機、他国の軍事基地及び単なる諜報員が再び駐留している。
今回、この責任は、「アル-カイダ」にある。1998年、ビン・ラディンの戦闘員は、駐ナイロビ米大使館に対してテロ行為を実行した。報復として、米国は、国際テロリズムに対する十字軍を宣言した。それ以来、ケニアは、旧植民地大国のテロ対策のための基地に変わった。アメリカ人、英国人及びドイツ人は、特にここから、ソマリアの状況を追跡している。その外、特にケニアの首都において、1999年、アブドゥッラフ・オジャランが逮捕された。クルド労働党党首は、トルコ特務機関職員が捕捉し、米国とイスラエルの同僚が助けた。
アメリカ人の気を引くため、2001年11月、ナイロビにおいて、ケニア特務機関は、ウラン調達のために偽造インド・パスポートによりコンゴ民主共和国に派遣されたというイラク人5人を逮捕した。
しかしながら、自国領内に多数のスパイが存在することは、新たなテロ行為からケニアを助けなかった。2002年11月、テロリストは、2発の対空ミサイルでイスラエルの旅客機を射撃し、イスラエル人観光客がいたMombasa
Paradiseホテルのホールを爆破した。飛行機の乗客の誰も負傷しなかったが、ホテルの爆発の結果、16人が死亡した。「アル-カイダ」が再び犯行声明を出した。ほぼ直ちに、テロ行為の組織者の名前も明らかになった。これは、FBIが作成した世界で最も危険なテロリスト22人のリストに入るフェイザル・アブドゥッラ・モハメッドである。彼は、1998年、ナイロビでテロ行為を組織した。
今年5月、ケニア特務機関は、フェイザルの所在地を特定した。彼は、ソマリアの首都でエージェントに認められた。この後、確認されたところによれば、ケニア領内に入国した。ちなみに、ケニア人の諜報部は、事実上、真剣に設置されている。しばらく前、ケニアのエージェントは、ソマリアの首都において、アメリカ大使館爆破の容疑者でもある「アル-カイダ」戦闘員スレイマン・アブダッラを捕捉した。しかしながら、ケニア特務機関の行動のこれら全ての成功は、西側での人気をもたらさなかった。
対テロ同盟の参加国の政府は、ケニアへの圧力を強化し続けている。その側面には、2つの要素が存在する。第1に、ケニアは、1997年から、汚職の非難のため、IMFと世界銀行の援助を得ておらず、飢餓に瀕しており、第2に、同国政府は、「アル-カイダ」と一対一になることを恐れている。
現在のところ、西側諸国は、あらゆる手段をもって、ケニアのテロとの戦いぶりに不満を示している。今年、ナイロビにおいて、米英大使館が閉鎖され、同じ場所にはノルウェーが入った。6月、ジョージ・ブッシュは、「テロ行為の脅威のため」、ナイロビ訪問を拒否し、ケニア側から、「ダブル・スタンダード」に対する不満を引き起こした。
その結果、同国の新大統領ムヴァイ・キバキは、NSISの改革に同意すらし、国家保安機関から対テロ・センターに変えることをアメリカ人に約束した。現在のところ、彼は、対テロ連合国の新規部隊の同国領内配備を清算せざるを得ない。というのも、3月にケニアに到着した英国機は、初めてにはほど遠かった。これらは、以前にモンバサに輸送されていた3機のドイツ偵察機に合流した。これらと関連して、市内には、150人以上のドイツ軍人も到着した。その外、ボンは、ケニアの航空基地の外、地域に著しい海軍集団を有している。
最終更新日:2004/04/07
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