■情報共同体の機構
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軍事偵察部(renseignements militaries、ムハバラート・アルミ) |
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総合保安局(Surete generale、アムン・エル‐ アムン) |
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国家保安局(Surete de l'Etat、アムン・エル‐ダウラ) |
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国内保安軍(Forces de securite interieure) |
その外、以下のものが存在する。
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内務省:内務相イリヤス・ムル(Elias Murr) |
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国防省:国防相ハリル・フラウィ(Khalil Hrawi) |
同国の特務機関システムは、KGBの最もリベラルなベテランですら、硬直させ得る。というのも、そのような機構は、諜報部及び防諜部にとって普通の任務の外、自国の独立と保全を保障しなければならないと、考えられているからである。レバノンでは、違った風に考えられている。内戦がかなり前に終結したにも拘らず、特務機関は、今に至るまで、その領土の半分を全く支配しておらず、この際、その指導部自体は、隣国の当局により任命されている。実際、この全ては、彼らが地域における最も強力な敵、イスラエル諜報部に勝つことを妨げていない。
■「抑止と平衡」のシステム
レバノンの公式、国家特務機関は、総合保安局(Surete generale(アラブ語で「アムン
・エル-アムン」))、国家保安局(Surete
de l'Etat(「アムン・エル-ダウラ」))、及び軍事偵察部(Renseignement
militaire(「ムハバラート・アルミ」))の3つが存在する。プラス、警察機能を遂行する内務省、憲兵及び国内保安軍がある。
外見上、このことは、何らかの欧州諸国の戦力官庁の機構を想起させる位に論理的で、簡単な図式である。
レバノン特務機関が巻き込まれるスキャンダルすら、欧州に非常に似ている。例えば、1999年、郵便・通信相イサム・ヌアマンは、高位国家及び政治活動家の電話の特務機関による盗聴の事実を認めた。内務省としかるべき議会委員会により行われた調査は、電話会話の盗聴の実践が1948年に既に始まっていたことを示した。これが明らかになるや、議会委員会は、電話会話の盗聴の合法化に関する法案
を同意のために政府に送った。総じて、これは、東欧又は中欧のどこかで起こっていることのように思われる。
しかし、
これは、外見だけである。諜報部長官ポストへの任命の原則ですら、いかなる欧州人も狂わせ得る。例えば、レバノンは、キリスト教徒(その上、カトリックも、
ギリシア正教も)とムスリム(シーア派、スンニー派及びドルーズ教徒)が住む多宗派国家である。その結果、国内には、権力機構
における宗派別代表制の原則が存在する。例えば、大統領はキリスト教徒で、首相はスンニー派で、議会議長はシーア派である。職務分配の同原則は、特務機関にも及ぶ。Surete de l'Etatの長エドゥアルド・マンスルは、大統領と同様、キリスト教徒で、軍事偵察部長ライモン・アザルも同様である。
しかしながら、信仰の外に、更に党派的なポスト配分原則が存在する。つい最近まで「ヒズボラ」と同様の戦闘テロ組織だった「アマル」党は、現在分別が付き、国家権力システム
に組み込まれ、独自の特務機関を解散した。その代わり、「アマル」は、国家の特務機関指導部に自分の党員を任命する機会を得た。その結果、マンスルの次官は、現在、「アマル」代表のハッサン・ファウアズ将軍である。
それにも拘らず、これで全てではない。レバノンは、
余りに長く、より強力な隣国の保護下か完全に逃れるために、イスラエルとアラブ諸国の戦場だった。イスラエルは2000年にレバノン領土から自軍を撤収したが、シリア軍は、1976年4月から国内に駐留しており、この事例に引き続くことを考慮しなかった。シリア軍は、首都ベイルートから去ったが、ベッカー峡谷に留まっている。その外、20年前と同様、シリア人は、レバノンの特務機関を支配し続けている。その結果、第3の特務機関であるSurete
generaleは、シリアの直接の傀儡であるジャミル・サイエドが指導しており、彼は、自分のチームから軍事偵察部副部長にライモン・アザルを選んだ。
その外、ロシアの情報によれば、ベイルートには、今に至るまで、全く合法的に存在するシリア諜報部の数ヶ所のオフィスがある。1982年から2002年10月まで、駐レバノン・シリア諜報部支局長には、レバノンの政治に対する影響力から、現地の「キング・メーカー」の仇名すら受けたグハジ・クナーン少将が勤務していた以上なおさらである。現在、彼は、ルストゥム・ガザリ大佐と交代している。駐ベイルート・シリア諜報部本部庁舎の住所は、誰にも秘密ではない。
西ベイルートのラムレト・アル‐バイダ地区、サダト通り、Beau Rivageホテルの近くである。
ロシアの政治テクノクラートが夢にも見なかったこの複雑な「抑止と平衡」の図式は、既に5年以上変わらないままである。列挙された将官全員は、大統領選挙でエミル・ラフドが勝利した後、1998年12月にそのポストに任命された。その時以来、国内では、議会選挙が行われ、国内の政治気候を急変させた。しかしながら、特務機関指導部は、
自分の場所に座り続けており、このことは、議員職を巡る闘いが全く別室で行われている影響力を巡る真の闘いではないことを証明している。ちなみに、次期レバノン議会選挙が今年の夏に行われることが正確に知られているが、大統領選挙は、ラフドの任期が終わりに近づいているにも拘らず、延期されることもあり得る。
■隣国
それにも拘らず、レバノンの特務機関指導部には、
各種集団の傀儡だけが座っているわけではない。彼らは、まだ全土を支配していない。南レバノンは、独自の諜報部、防諜部及び保安機関を有するテロ集団「ヒズボラ」の権力下にある。
「ハイエナ」の仇名で有名な「テロリストNo.2」、イマド・ムグニエがそれらを監督している。彼は、ヤセル・アラファトの側近の1人、サラフ・ハラフの指導の下、パレスチナのファタハの統合保安局で出世を始め、80年代中盤、「ヒズボラ」の作戦課に異動した。彼の義務には、イラン諜報部の助けにより、レバノン国外での諜報、破壊工作及びテロ作戦の実施が含まれた。特に彼は、1985年、2人のKGBベイルート支局職員オレグ・スピリンとワレーリー・ムイリコフ、並びにソビエト大使館医師ニコライ・スヴィルスキーと領事課職員アルカディ・カトコフの人質略取を監督した。
ムグニエの機構は、事実上、レバノンの国家特務機関と全く協力していないが、彼らは、その利益をきちんと擁護している。例えば、2001年3月、レバノン特務機関は、イスラエルのために働いていたスパイ網のメンバー12人を逮捕した。当局の情報によれば、彼らは、イスラエルが「ヒズボラ」集団の戦闘員に関する情報の収集のためにレバノン領内に侵入させた「スパイ及びテロ・ネットワーク」の一部を構成した。被拘束者全員は、イスラエル領土で特殊訓練を受け、レバノン人中からエージェントを徴募し、レバノンの港湾都市シドンとそれに隣接する郊外でテロ行為を組織する任務を受領したことを認めた。審理は、2002年10月になって初めて結審し、関係者全員は、有罪と認められ、1人は、死刑を言い渡されすらした(実際、
国土を離れることができたため、欠席で)。同年1月、レバノンの防諜部は、「ヒズボラ」組織及び在レバノン・シリア軍の活動に関する諜報情報を収集していた更に3人の「モサド」のエージェントを拘束した。
それにも拘らず、国家特務機関と「ヒズボラ」の同僚間の関係は、決して、レバノンの国内問題ではない。ロシアの情報によれば、「ヒズボラ」には、ヒズボラがイスラエルとの戦争の主な重責を担っているため、レバノン、イラン及びシリアの3ヶ国合意の結果、南レバノンにおける行動の自由が提供されている。その結果、当局と「ヒズボラ」間で起こり得る各紛争は、国内ではなく、国際性を有するだろう。それにも拘らず、
このことは、署名された条約のためでは決してなく、自動的に起こるだろう。単に南レバノン領域には、今に至るまで、イランのイスラム革命防衛隊の部隊
が存在しているからである。「ヒズボラ」がアンタッチャブルである限り、レバノンも、侵攻の脅威の下ですら、その利益を擁護する用意がある。
2001年10月、9月のテロ行為直後、権威ある出版物Jane's
Securityは、米国の軍事的対テロ作戦の新段階に対する最も可能性がある標的は、レバノン、正確に言えば、そこに「ヒズボラ」の基地が存在するという理由で、ベイルート東方のベッカー峡谷となると予測した。しかしながら、この示唆は、ヒズボラを擁護するレバノンの決意に影響を与えず、2002年1月、レバノン外務省は、この集団を葬ろうという米大統領補佐官コンドリザ・ライスの呼びかけを拒否した。
昨年8月、World
Tribuneは、CIAがサダム・フセイン体制により開発されたイラクの大量破壊兵器がベッカー峡谷に存在するという情報を所有していると主張する記事を掲載した。
新たな示唆は、再びいかなる成果も収めなかった。現在のところ、「ヒズボラ」には触れないことが決定されている。
駐ロシア・レバノン大使館筋の情報によれば、両国の特務機関間の協力は、
散発性を帯びている。公式に、相互接触は、ロシア内務省と国家保安局(Surete de l'Etat)が維持している。これは、レバノンの最も強力な特務機関で、昔のKGBをより髣髴させる。その機能には、防諜の外、国境警備も含まれる。しかしながら、ベイルートには、ロシアの連絡将校はおらず、レバノン大使館には、両国の法保護戦力間の調整に従事する特殊職員がいない。現代史で1度だけ、両国の特務機関指導部は、
直接対話を決めた。これは、レバノンの山岳地区に「アル‐カイダ」か、チェチェン人過激派と関係を有する戦闘員
が浸透したことが明らかになった4年前に行われ、レバノン軍は、その撃滅に関する作戦に成功した。その領内にチェチェン人テロリストの訓練キャンプを許しているというレバノン宛のイスラエルの常なる非難を考慮すれば、この作戦の成功は、レバノン人がモスクワに対して完全に正当である機会を与えた。
当時、ロシアには、国家保安局副長官ハッサン・ファウアズが滞在しており、数日間、「ナツィオナル」に滞在し、武器納入に関して「ロスヴォオルジェーニエ」と交渉を試みた。しかしながら、
彼の訪問は、何ももたらさなかった。モスクワに来た最後のレバノンの戦力要員は、数日間ロシアに滞在した国家保安局長エドゥアルド・マンスルだったが、彼の訪問は非公式で、プレス上には報道されなかった。実際、2001年、レバノン内務省の招請により、連邦税務警察庁の代表団が同国を訪れたが、この官庁の解散後、
恐らく、獲得された関係の維持については話されていないだろう。現在、ロシアの情報によれば、総合保安局長官ジャミル・サイエドの訪問が準備されているが、いつ行われるかは、現在のところ知られていない。
この際、「ヒズボラ」は、大使館と全く無関係な並行する在ロシア関係
を組織した。モスクワには、何らかの基金の指導者の姿で、集団の現地支部のボスが住んでおり、その身分は、いつものように、FSBモスクワ局職員に知られている。
最終更新日:2004/04/09
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