マリの情報機関

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保安省(Ministere de la Securite et de la Protection Civile):保安相Tiecoura Doumbia将軍

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国防省(Ministere des Forces Armees et des Anciens Combattants):国防相Soumeylou Boubeye Maiga

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法務省(Ministere de la Justice, Garde des Sceaux):法務相Abdoulaye Ogotembely Poudiougou

■一般情報

 マリは、共和国である。首都は、バマコである。19世紀後半、西アフリカの中央部は、フランスの植民地拡大の対象となった。現地住民は、勇敢にその独立の擁護に努めた。サモリその他のボスの指導下において、マリンケ族、ソニンケ族及びトゥクレル族が最も頑強に抵抗した。1894年になって初めて、主要な抵抗拠点が鎮圧された。ニジェール及びセネガル川上流及び中流沿いに位置する州は、植民地仏領スーダンに併合され、1895年、仏領西アフリカの構成に入った。1899〜1920年、仏領スーダンの領土は、 隣の仏領植民地間で分割された。1920年から、独立の植民地として再統合された。

 1958年9月28日の新しいフランス憲法案に関する国民投票の結果に従い、仏領スーダンは、スーダン共和国の名の下、フランス連邦加盟国たる国家の地位を得た。1959年、スーダン共和国とセネガル共和国は、マリ連邦に統合された。連邦総会議長にはセダル・センゴル(セネガル)が、連邦政府議長にはモディロ・ケイタが選出された。1960年6月、マリ連邦は、フランス連邦の枠内で独立を得た。 連邦指導部中の国内外政策問題に関する相違は、その崩壊をもたらした(1960年8月20日、セネガル共和国政府は、脱退を表明した。)。1960年9月22日、スーダン共和国立法総会は、マリ共和国の名の下、スーダン共和国を主権かつ独立国家として宣言し、フランス連邦からの脱退に関する決定を採択した。1961年、マリ政府は、自国領土からのフランス軍の撤退を勝ち取った。

 1967年、国家革命防衛委員会が編成され、国の指導を手中に収めた。スーダン連邦最高機関、後に立法総会は解散された。労働組合と青年組織に支えられ、国家革命防衛委員会は、経済状態の改善、汚職対策に関する一連の措置を採った。

 しかしながら、これらの措置は、手遅れであり、1968年11月19日、マリで、軍事クーデターが実行された。憲法の効力が停止され、11月28日、暫定国家権力組織に関する布告が公布された。布告に従い、国内には、全国家権力が属する民族解放軍事委員会が設置された。民族解放軍事委員会議長M.トラオレ中尉(1971年11月から大佐)は、国家元首(1968年11月から)、政府議長(1969年11月から)になった。労働組合の統合機関である国家労働者同盟を指導するスーダン同盟党と主要社会団体が解散された。軍事クーデター後、1968年11月28日付暫定国家権力組織に関する布告が採択された。最高国家権力機関たる民族解放軍事委員会は、議長(国家元首かつ政府の長)、副議長、書記及び委員から成った。当時、国内では、全ての政党が禁止され、戒厳令が導入された。1979年、マリにおいて、マリ人民民主同盟党が創設され、1991年まで統治した。

 1991年、マリ・ムッサ・トラオレが打倒された。彼の後、独裁者を排除したアルファ・ウマル・コナレが国を統治した(2002年5月まで)。5月15日、空挺軍リャザン学校の卒業生、アマドゥ・トゥマニ・トゥレ退役将軍が選挙で勝利した。

 54歳の将軍は、マリで非常に大きな人気を得ている。1991〜92年、彼は、移行期間中マリを指導し、その後、文民政権に国の統治を引き渡した。彼は、国家元首に立候補する権利を有するために、選挙の半年前に軍から退役した。それにも拘らず、トゥレ自身は、「軍人精神のまま」だと語っている。27政党から成る連合が将軍を支持している。もう1つの興味深い経緯が、マリでの最後の選挙と関係している。一次投票後、票数の集計が世界に類を有さない理由で中断された。国家中央集権コンピュータ・システムへのアクセス・パスワードを知る唯一のプログラマーが、「重大な自動車事故」に遭ったのである。

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最終更新日:2052/09/07

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