モーリタニア空軍

 アフリカのこの小国は、1960年11月、フランスから独立を得た。当時、フランス政府により譲渡されたC-47×1機とブルッサード×2機から成る航空部隊も編成された。これらの輸送機は、国内唯一の飛行場(ついでに、唯一の国際空港)、首都ヌアクショットから飛行した。

 数年後、この小部隊は、空軍という誇らしい名称を得たが、主任務は、輸送と連絡だった。現地飛行要員の訓練が始まった1970年まで、飛行士は、政府と契約を結んだフランス人だった。1970年までに、「ダコタ」の機数は、6機まで増加し、並びに数機のブルッサードも現れた。しかしながら、同年、MC.881教育機6機が購入された。

 70年代初め、最初の大きな再編が行われた。C-47は輸送飛行隊(Escadrille de Transport)、ブルッサードは連絡飛行隊(Escadrille de Liaison)(1971〜73年にナイジェリアから購入された7機の「スカイマスター」で増強された。)に編入された。

 1974年、C-54 2機も購入され、翌年11月、部隊に、新参の「スカイヴェン」が導入され始めた。英国のこれら短距離離着陸機は、代え難いものとなり、長期間、空軍輸送機の基盤を構成した。1974年、公人輸送のために、「カラヴェラ」が購入された。

 しかしながら、このように小さな空軍ですら、戦闘行動に引き込まれたが、問題は、スペインが1974年に植民地、スペイン領サハラを解放し、同領土がモーリタニアとモロッコにより占領されたことにあった。しかしながら、ポリサリオ戦線に団結した現地住民は、活発な戦闘行動を開始した。彼らの闘争は、リビアとアルジェリアが支援した。

 対反乱作戦のために、モーリタニアは、1976年、4機の「ディフェンダー」を購入し、理想的な問題解決となった。これらの輸送機は、強力なレーダーと機関砲及びロケット弾から成る豊富な懸架装備を有していた。計9機の同機が購入され、監視飛行隊(Escadrille de Surveillance)に編入された。しかしながら、 良く装備された反乱軍は、小さなモーリタニア航空隊に著しい損害を与えることができた。つまり、1976年だけで、2機の「ディフェンダー」が撃墜された。追加数のセスナO-2の納入は、問題を解決しなかった。アルゼンチンから特殊攻撃機「プカラ」を購入する案が検討されたが、政府官僚は、カナダ製「バッファロー」×4機の購入に資金を出すことに決めた。その上、これらの機体は、空軍と陸軍の共同統制下にあった。1978年、初めてヘリが購入された。これは、4機のヒューズ-500だった。

 反乱軍の戦闘行動は、その戦闘にフランスの「ジャギュア」が参加するくらい政府を脅かし、同機は、ポリサリオ主力の集結地に対する数回の大規模打撃を行った。

 しかしながら、長期に渡る戦争は、1978年7月7日の軍事クーデターで終結し、その結果、新政府は、平和条約を締結した。戦闘行動は、1979年8月に終結した。

 今日、モーリタニア空軍の主要機能は、やはり、輸送、並びに海上と地上の国境の警戒である。1981年、長期哨戒用に特別調達されたパイパーPA-31×2機が装備に導入された。

 90年代末までに、同国空軍は、実戦力ではなくなったのに加えて、新しい飛行機及びヘリの導入はなく、近い将来、その見込みもない。

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最終更新日:2004/03/15

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