オサマ・ビン・ラディン

イスラム・スローガンの下での最大(ある評価によれば、近代世界最大)のテロリズム理論家かつ組織者


 オサマは、王国の発展につれ成長した「サウジ・ビン・ラディン・グループ」を1931年に創設した故モハメッド・ビン・ラディンの52子の17子だった。4人の妻を有する。幼年時代から宗教に惹きつけられた。オサマ・ビン・モハメッド・ビン・アバド・ビン・ラディン(彼の正式な名前はこう発音する。)は、かつてサウジアラビアに移住したイエメン農民一家の出身で、石油ブーム時代、建物及び道路の建設で金持ちになった。一家は、メッカ及びメディナの聖なるモスクの修理を任されるほど、王室の下で高い地位を得た。現在、「サウジ・ビン・ラディン・グループ」は、米国、アジア及び欧州に多数の支部及び子会社(60社以上)を有し、石油及び化学プロジェクト、遠距離通信及び衛星通信に従事している。興味深いのは、その活動には、多数の遵法アメリカ人ビジネスマン及び納税者が参加していることである。一家は、最も裕福で、王室に近い一家の1つである。一家は、50億ドル以上の資本を所有しており、その内、ほぼ3億ドルがオサマの取り分だった。彼は、それに加えて、一家の建設事業から利子を得ている。オサマには、スーダンの建設会社「アル・ヒジュラ」、イスラム銀行「アシュ・シャマリ」の支配株も属している。これに加えて、彼は、投資財閥「タバ」を所有し、代理人を通して、ケニアに一連の貿易会社、イエメンに器械製造会社、出版社、セラミック生産工場を含む「帝国」を監督している。

 未来のテロリストは、1957年7月28日、紅海沿岸のメッカの向かい側に位置するジッダ市で生まれた。彼の幼年期は、イスラムの故郷、ヒジャズで過ごされた。オサマの少年時代は、礼儀正しさと同に、同級生の証言によれば、異説を唱えるあらゆる者への攻撃性と不寛容が特徴的だった。上級クラスの生徒となり、彼は、彼がアッラーの敵と考えた彼を嫌う同級生を殴ることを友人に唆した。16歳の時、オサマは、サウジアラビアで活動していたイスラム原理主義集団の1つに加わった。恐らく、これは、熱狂的なムスリムだった母の影響下で起こったのだろう。若きビン・ラディンは、暫くの間、国民によるコーランの規定の遵守に対する監督を実施していた王国シャリアート警察で勤務した。しかしながら、大官僚まで勤め上げなかった。最終的に、ラディンの世界観は、ジッダのアブデリ・アジズ王大学で形成され、特にイスラム保守主義のこの揺り篭において、運命は、後に彼の精神的教師、「アフガンのアラブ人」、つまり、イスラム過激派の運動、それによる世界中での数十件の血生臭い犯罪の主要理論家となった「イフバン・アリ-ムスリモン」(「ムスリム兄弟」)の有名な長、アブダラ・アッザムに彼を導いた。経済・管理学部の卒業証書を受け、一家のビジネスに要領よく加わることができず、オサマは、アフガニスタンでの戦争に送られた。サウジアラビアの指導者は、アフガンのムスリムの抵抗を積極的に支援することに決め、特に王室に非常に近かったラディン一家に要請した。オサマ・ビン・ラディンは、駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表に任命された。彼を知るアフガン人の証言によれば、彼の軍事的昇進の開始がサウジ特務機関と密接に関連していた以上なおさらである。サウジアラビア情報総庁長官トゥルキ・アル-フェイサル皇太子の委任により、オサマは、仲介サービスに対する利子を手元に残しつつ、数十億をアフガンのグループに寄付した。利子は、サウジ王朝がアフガンのジハードの維持及び装備に米国の2倍以上を費やした以上、相当な収入となった。ここに、オサマ自身が語った言葉がある。「アフガニスタンへの侵入が始まったとき、私は激怒し、直ぐにそこに向かった。私は、1979年末にアフガニスタンに到着した」。アブダラ・アッザムと共に、ラディンは、アラブ諸国からのムスリム義勇兵の徴募に関する「サービス局」(マクタブ・アル-ヒダマト)を創設した。「局」の支部は、欧州及び米国を含む多くの国で創設された。ビン・ラディンは、アフガニスタンへのムジャヒディン義勇兵入国及び訓練キャンプでの彼らの訓練を出費し、そこで、彼らは、テロ・破壊工作活動を教育された。あるデータによれば、この図式により、約1万人の兵士の教育が行われ、アフガン人自身は、少数派であった。義勇兵の約半数は、サウジアラビア出身者が構成した。残りは、アルジェリア(約3千人)、エジプト(2千人)、イエメン、パキスタン、スーダンその他一連のムスリム諸国からやって来た。ビン・ラディンの活動は、米国、何よりも、アフガンのムジャヒディンに年間5億ドルと、近代的な武器、特に、「スティンガー」の装備を支払ったCIAの積極的な支援を享受した。

 しかしながら、1989年末、アブダラ・アッザムは、アッラーの元に召された。彼の車両に爆発物が仕掛けられ、彼自身とその2人の息子をバラバラにした。この暗殺の発注主は、結局、発見されなかった。客観的に、彼の死には、いわゆる「アフガンのアラブ人」の唯一の指導者の役割を要求したビン・ラディンが関与した公算が大きい。アッザムは、自分の死後、無神論者との聖なる戦いの旗印に変わり、特にこの立場において、自分の生徒の向上を可能にした。

 1991年、ある非常に奇妙なことが起こった。最も裕福な氏族の1つの末裔、アフガン戦争の英雄、サウジ諜報部のエージェント及びそのボスであるアル-フェイサルの被保護者は、突然、統治王朝の不興を被った。事の従来の説明は、ラディンがこの戦争のベテランの多くに知られる「アフガン・シンドローム」の犠牲者となったものとされている。彼は、米国及びイスラエルとの関係に対して、汚職とイスラムの真の規範からの逸脱に彩られた王室を公然と非難し始めた。この際、特に ビン・ラディンは、「砂漠の嵐」作戦を準備していた反イラク連合軍の神聖なるサウジの地への配備に否定的だったことが確認されている。多数の伝記作家の意見によれば、彼は、これに憤怒し、隣国スーダンに隠れ家を探さざるを得なかった。スーダン滞在期間、ビン・ラディンは、国家元首オマル・アル-バシル及びイスラム民族戦線指導者ハサン・アト-トゥラビと親しかった。しかしながら、1996年、スーダン当局は、アメリカに対する善意のジェスチャーとして、彼の出国を要求した。1996年5月、彼は、アフガニスタンに移住し、事後、「タリバンの客」となっている。しかしながら、この経緯には、若干の疑問が存在する。サウジアラビアからの逃亡後ですら、オサマ・ビン・ラディンは、何故だか、国際手配されず、サウジ市民権は、かなり後、エル・リャド及びダーランのアメリカ軍基地の爆破の犯行声明を出した1994年に剥奪された。第2に、ビン・ラディンの家族は、不興を被らず、オサマに属していた建設会社「サウジ・ビン・ラディン・グループ」は、1984年に始まった20世紀最大の建設プロジェクトの1つ、メッカの聖なるモスク及びメディナの預言者のモスクの拡張に対する作業を続けた。後に、オサマは、アフガンのタリバンに隠れ家を見つけると同時に、サウジ王室の援助を享受した。この状況下において、「不況」は、少し疑わしくある。

 1996年、特に、ウサマ・ビン・ラディンは、タリバンに積極的な財政援助を提供した。これは、彼らが比較的短期間でアフガニスタンの大部分を占領することも助けた。カブールに対する決定的攻撃の直前の1996年9月だけで、彼は、運動に300万ドルを寄付した。この額の大部分は、武器の購入ではなく、ラバニ政府の若干の官僚と市の防衛を指導していた政府軍指揮官の買収に使用された。同時に、ビン・ラディンは、アフガニスタン南部及び南東部のパシュトゥン人の一連の大部族の族長、並びに連合したタジク人敵対派の敵対派と関係を確立した。それにも拘らず、当期間、彼の関心は、既に遠くアフガニスタン国外に広がっていた。同国での自分の立場の強化を続けつつ、ビン・ラディンは、国際舞台での積極的な活動に着手した。1996年6月、イタリアの「コリエラ・セラ」紙は、エジプト筋を引用して、イラン情報局の後援下でのイスラム・テロ組織の会議の実施について報道した。会議参加者の中で、同紙は、特にビン・ラディンを取り上げた。アメリカのテロ対策問題の専門家は、非常に高い権威のおかげで、オサマが世界中の常時及び一時的同盟者の活動の出資のために、イスラム企業家から巨額を集める能力を有していることを指摘している。彼は、自社、又は欧州、アメリカ及び近東の自分と関係する会社を通して、この金を送金している。そして既にそれを通して、ありとあらゆるイスラム「慈善」組織に送金されている。エジプトの「ムスリム兄弟」組織、イエメンのイスラム過激派、アルジェリアのテロ集団、ボスニアのムスリム、「アル・ジハード」組織への出資に関するデータが存在する。ペルシャ湾岸諸国からタリバンを経由したチェチェン、つまり、ハッタブ、アブドゥラ・マレク、ムハメッド・シャリフ及びサラー・エド-ディン等のバーブ教アラブ人が含まれるゼリムハン・ヤンダルビエフの側近への送金における彼の仲介についても知られている。1997年、CIAは、ビン・ラディンがブルックリン、ニュージャージー及びデトロイト等、米領土のイスラム過激派に大金を割り当てているとの情報を受け取った。アメリカ諜報部のデータは、両者(サウジとビン・ラディン)が喜んで世界に誇示している敵対にも拘らず、その活動がサウジアラビア統治王朝により部分的に出資されていることについて証明している。

 1988年、ラディンは、ジハード継続のために、組織「アル・カイダ」(「基地」、又は「基盤」)を創設した。組織の戦闘員は、レバノン、シリア、ヨルダン、イラク、マレーシア、パキスタン、モロッコ、アラブ首長国連邦、旧ユーゴスラビア諸国、ルーマニア、オランダ、トルコ、ロシア、サウジアラビア等、多くの国の領土に分散している。アフガンのムスリムの支援に集中すべきだと考えていたアッザムに反して、ビン・ラディンは、他国への闘争の拡大に賛成した。恐らく、その戦略的不一致も、後のアッザムの死と関係を有していたのだろう。

 ラディンは、古典的バーブ教のイデオロギーを堅持し、その闘争目的を「西側の影響から解放された公正なイスラム国家の創設」と呼んでいる。イスラムの敵と考えられているのは、先ず第1に、米国、イスラエル及びその同盟国、何よりも、アラブ諸国、並びにロシア、中国、インドである。ビン・ラディンは、「神の助けにより、我々は、宗教的報酬を受け取り、神の命令を聞き入れ、どこでも、いつでも、アメリカ人を殺し、その金を奪うことを欲する敬虔な各ムスリムを召集する」と表明している。

 中世の回教僧と同様に、彼は、いたるところに数人の妾を囲っている。ビン・ラディンは、武器マニアで、火器の中では、カラシニコフ自動小銃を好み、イスラエル製の「ウージー」を捨て、原則的に「シオニストの発明品」を手にしない。ラクダ乗りが好きで、「トヨタ」のジープを乗り回すのを好む。主な趣味は、鷹狩である。ビン・ラディンによりスーダン及びアフガニスタンの彼の邸宅に招かれる幸運(この際、生き延びた)に恵まれた西側の訪問者は、適時の歓談と巧みな東洋の歓待でもてなすという気をくじくほどに気品のあるマナーを認めている。彼は、普通、お茶又はベドウィンのコーヒー、アラブのお菓子、ヤギのチーズ、オリーブ及びジャムで自分の客に勧める。2001年2月、ラディンは、自作の詩を公表した。そこで、彼は、イスラエルに対するパレスチナ人の闘争について歓喜して反応し、水兵17人の生命を奪った2000年10月のアメリカの駆逐艦「Cole」の爆破を評価している。サウジの億万長者の公式発言は、彼の息子の結婚式で行われ、近東のテレビ会社の1つは、オサマ・ビン・ラディンの息子と、彼の側近のアブ・ハフス・アル-マスリの娘の結婚式が撮影された1コマを流した。結婚式は、アフガンのカンダハル市で行われ、アマチュアのカメラで撮影された。主要な一家の祝い事は、コマから外され、フィルムでは、ラディン自身、彼の息子のモハメッド及び花嫁の父だけを見ることができ、フィルムに音はなかったが、この記録に付随したプレス・リリースでは、ビン・ラディンが自分の詩を朗読することを含めて、パレスチナのインティファーダを支持するという演説を行ったと伝えられた。Reutersの報道によれば、結婚式には、タリバン政府の数人の高位代表も出席したが、その誰もフィルムに撮影されなかった。

 何れにせよ、世界は、オサマ・ビン・ラディンの名前を聞いて、身震いすることを既に覚えたようである。というのも、彼のものとされる言葉があるからである。「我々は、軍服を着た者と、私服を着た者を区別しない。彼ら全員は、我々にとって、生ける標的である・・・」。

 2000年のキルギス南部でのバトケン事件時、ウズベキスタン・イスラム運動の戦闘員の強化のために、「ボスの援助」として、ビン・ラディンは、自分の戦友、アブ・スハイブ・アル-アンサリ(元ヨルダン国民)とアブ・ジャンダル(「シェイフ・アブルフサイン」、「シェイフ・アブドゥルバリド」)を戦闘行動地区に派遣した。2000年8月26日、カンダハルにおいて、そこに急行したアブ・ジャンダル指揮下の兵士40人から成るグループには、タリバンの協力の下でタジキスタンとの国境を横断する任務が付与された。元アルジェリア国民のアブ・ジャンダルは、フェルガナ峡谷の「ジハード戦力」の行動を調整する権限を与えられた。ラディンの組織の援助もなくはなく、バトケンの戦闘員中には、2人の将軍、某アフタルとアサル・バブルがいた。2000年8月、バトケン地域に、20人から成る身辺警護と共に、ビン・ラディン側近の4人のアラブ人が到着し、その内、2人の名前、アブ・ハムザ・タリクとアブ・アル・ハミルが知られている。彼らの外、その時までに45人のアフガン人がそこに存在した。

 オサマ・ビン・ラディンは、アフガンの事件に広く関与し、国際イスラム過激派組織と密接に関係する中国新疆ウィグル自治区南部(カシュガリア)のウィグル分離主義者中で、大きな人気を得ている。

 パキスタンの「Nation」紙のデータによれば、2001年7月末、小シュラ(ウレム10人会議)は、ラディンを「タリバン」運動国防相に任命した。

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最終更新日:2004/03/15

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